2018.12.06 更新 | 明治時代
坂本龍馬とは|生涯から陰謀論、暗殺の真実まで完全網羅
こんにちは、こがみのりです。
今回は「坂本龍馬」についてお伝えしていきます。
坂本龍馬といえば、幕末で活躍し、
明治維新の立役者となった一人ですが、
実は元々日本であまり有名ではなかったという背景があります。
その理由についてもこれから説明していくのですが、
今回はよく話題に上がる「暗殺の真実」についても、
火鳥風月的解釈をお伝えしようと思っています。
かなり面白い考察だと思いますので、
ぜひ、そちらも御覧ください。
1.坂本龍馬の生涯
まずは、これから坂本龍馬の生涯についてお伝えします。
坂本龍馬は、1835年に土佐で生まれました。
坂本龍馬の家系は女性が非常に強かったそうです。
例えば、坂本龍馬の姉である
「乙女(乙女姉さんと呼ばれています)」は、有名です。
戦国時代にの坂本家には
「おかあ殿」と呼ばれる女性がいて
山賊6人を斬り伏せたとも言われています。
他にも、坂本龍馬自身の母親は
生まれてすぐに亡くなってしまったのですが、
義母として入った方は長刀(なぎなた)の名手だったと言います。
確かに女傑家族だったようですね。
坂本龍馬は武士だったのか?
そして、そんな母に影響され、
1853年、19歳の時に江戸の「千葉道場」に行き、
「北辰一刀流」に入門しました。
ちなみに、この当時、
実践の中での剣というのは少なくなってきており、
「剣」といっても、多少形だけになっていたのです。
というのも、江戸時代は非常に平和で、
人を切るようなこともほとんどありませんでした。
そのため、「北辰一刀流」も強かったのですが、
「形だけ」になってきており、「実際に人を斬る」というところで言うと、
新選組で有名な「天然理心流」や薩摩の「示現流」が
主流だったと言われています。
そして、こんな事を言うと、
「北辰一刀流ってことは、坂本龍馬は武士だったんですか?」
という質問をいただくこともあります。
確かに坂本龍馬は武士(土佐藩の身分制度で言う「郷士」)の
身分だったのですが、家系自体は元々武士だったわけではありません。
少し当時の身分の話をしておくと、
当時の土佐藩(現在の高知県)の藩主は山内容堂。
そして、その下に「上士(じょうし)」と
「下士(かし)」という身分があったのです。
例えば、坂本龍馬の生涯の中でよく名前の出てくる後藤象二郎は、
「上士」の中での一番上の身分「家老」でした。
「家老」はお殿様のひとつ下の身分です。
他にも有名な人物で言うと、
武市半平太は「下士」の中で一番上の身分である「白札」
という身分でした。
坂本龍馬と仲が良く、
暗殺の現場にも一緒にいた中岡慎太郎は
「下士」の中で一番下の身分である「庄屋」という身分。
三菱を作った岩崎弥太郎は、
更に下の「地下浪人」という身分だったのです。
そして、坂本龍馬の身分は
「下士」の中で上から二番目の身分である「郷士」でした。
「郷士」は、身分としてはそんなに高くありません。
しかも、坂本龍馬の家は元々商人の家で、
武士ではありませんでした。
では、どうやって武士になったのでしょうか?
実は、当時の土佐藩では、
「身分」をお金で買うことができたのです。
そのため、お金がなくなった武士は、自分の持つ株を売ることで、
「武士」という身分を失う代わりに、食いつなぐことができたのです。
なので、土佐藩では、
お金を持っている商人が武士になることも可能だったのです。
つまり、坂本龍馬の家も身分をお金で買って、商人から武士になったのです。
ちなみに「人斬り以蔵」の異名で有名な岡田以蔵も
坂本龍馬と同じように商人から武士になった家でした。
坂本龍馬は、そんな商人から武士になった家に生まれたのです。
そして、坂本龍馬が江戸に出たこの1853年に、
ペリーが黒船に乗って来航し、開国を迫ってきました。
その翌年の1854年、坂本龍馬は20歳の時に江戸から土佐に帰ってきます。
この時、土佐でジョン万次郎と出会いました。
坂本龍馬とジョン万次郎の出会い
ジョン万次郎は、漁に出た時に遭難し、
その後、アメリカの捕鯨船に救助され、
そのままアメリカへと渡った人物です。
日本人で初めてアメリカに
足を踏み入れた人物とも言われています。
そして、このジョン万次郎との出会いが、
坂本龍馬の人生を大きく変えていきました。
それまでの坂本龍馬の性格は、
例えば、手紙で父親に「異人の首を切る!」書いて送るような、
当時としては誰もが抱いていたような典型的な
攘夷思想(外国人を排除しようという思想)を持っていました。
いわゆる、どこにでもいる若者だったのですが、
ジョン万次郎に出会ってからどんどん考え方が
変わっていったのです。
ジョン万次郎はアメリカの情勢に詳しかったため、
坂本龍馬はジョン万次郎と話を重ねていくうちに、
「ただ、外人を殺すだけじゃダメなんだ…!」
ということに気付いたのです。
そこで、単なる武力で諸外国を打ち負かすのではなく、
船を買って航海術を学び、貿易をして、
外国と武力以外での戦い方をしようと思うようになったのです。
坂本龍馬、脱藩のきっかけ
そして、その翌年の1855年、
坂本龍馬が、21歳の時、父・八平が他界します。
坂本家の家督は兄・権平が相続したため、自由に動ける坂本龍馬は、
1856年、22歳の時に再び江戸に行き、また剣を習いに行きました。
そして、1858年、24歳の時に
「戊午の密勅」から「安政の大獄」までの
一連の事件がきっかけとなって、
山内容堂が土佐藩藩主を引退し、隠居しました。
1861年27歳の時に坂本龍馬は、
武市半平太が作った「土佐勤王党」に入りました。
そして、土佐勤王党の思想は、
「君側の奸を除く(=君主のそばにいる、悪い奴を排除する)」
という考え方だったのですが、
これには大きな問題があったのです。
というのも、
この「君主のそばにいる悪いやつを排除する!」という大義名分を元に、
結局は自分にとって都合の悪い人間を
かたっぱしから斬っていってしまったのです。
これにより、君主は多くの重要な部下を殺されました。
そして結局、坂本龍馬はこの思想が合わず、
土佐勤王党を脱退するのです。
これが、きっかけの一つとなり、土佐藩を脱藩しました。
1862年28歳の出来事です。
当時、「脱藩」とは、決して許されないことでした。
当然これには罰則があり、
一度藩を出たら、絶対に帰ることはできなかったのです。
坂本龍馬と勝海舟との出会い
そして、坂本龍馬は脱藩して
そのまま江戸に向かい、勝海舟に会いに行きました。
なぜ、勝海舟に会いに行ったのか?
実は、「殺しに行くため」だったのです。
坂本龍馬は、開国反対派でした。
それに対して、勝海舟は開国派です。
坂本龍馬は外国と関わることは
基本的に良くないと考えていたので、
開国を進める勝海舟を殺しに行ったのです。
坂本龍馬は、勝海舟の家に行って、
ゴンゴンゴン、と門を叩きました。
すると出てきたのは、勝海舟の妹さんだったのです。
坂本龍馬「勝海舟はいるか?」
妹「お前みたいな無礼な奴に兄は絶対に会わせられん!」
そう言って、薙刀を持って追い返されてしまうのです。
門前払いされた坂本龍馬は、
その後、きちんと礼儀を正して、
再度勝海舟へ会いに行きます。
「勝先生にお取り次ぎいただけないでしょうか?」
そう言って、ようやく会わせてもらうことができたのです。
その時、勝海舟の首をそのまま狙おうと
意気込んでいた坂本龍馬ですが、話しているうちに、
どんどん勝海舟の話にのめり込んでいきます。
そして、航海術にも詳しく、
国際情勢にも詳しい勝海舟に圧倒され、
結局は、勝海舟を師事するようになるのです。
それから坂本龍馬は、
勝海舟の元で勉強するようになりました。
日本初の株式会社「海援隊」の発足へ
そして、1864年、30歳の時、
坂本龍馬が脱藩する元となった
土佐勤王党が壊滅します。
創始者の武市半平太や、
岡田以蔵を含めた全員が切腹になりました。
というのも、土佐藩の藩主である山内容堂が
土佐勤王党の活動に怒ったのです。
土佐勤王党は、あまりにも君主の意図を組まず、
好き勝手に山内容堂の大切な部下を
どんどん殺して行きました。
もちろん、それらの行動が
君主のコントロール下にあるのであれば構わないのです。
ですが、コントロールが効かなくなってしまった。
そのため、全員を捕まえて切腹を命じることになったのです。
そして、その1年後の1865年、31歳の時に、
坂本龍馬は長崎で亀山社中という日本初の株式会社を立ち上げました。
亀山社中はのちの「海援隊」となる組織です。
この会社は長崎で創られたのですが、
主な仕事は、貿易や交易の仲介でした。
そして、この時に坂本龍馬は
スコットランド人の武器商人であるトーマス・ブレイク・グラバーとの
関わり(=取引)があったとされています。
この関係性について、詳しくは後ほど解説していきますが、
このグラバーとの関わりがあったからこそ、
身分が高いとは言えなかった坂本龍馬が
明治維新の立役者となれたとも言われています。
薩長同盟から明治維新、そして暗殺へ…
1866年、32歳の時に薩長同盟を行います。
そして、その数日後に「寺田屋事件」がありました。
この時、坂本龍馬はおよそ30人ほどに囲まれ、襲われたといいます。
そこで難を逃れるきっかけとなったのが
お風呂に入っていた妻のお龍(おりょう)でした。
暗殺の影にいち早く気づき、
裸のまま坂本龍馬のもとに走ってきて、
「逃げてください!!」と伝えたのです。
このおかげで難を逃れることができた坂本龍馬は、
そのあと、お龍を連れて薩摩へと向かいます。
これが日本初のハネムーンと言われていますが、
実際には、怪我を湯治(傷を癒し)に行ったと言われています。
そして、1867年、
大政奉還が行われた15日後に坂本龍馬は暗殺されました。
こうして、33年という短い人生に幕を下ろしたのです。
年号 | 年齢 | 出来事 |
1835年 | 0歳 | 土佐で生まれる |
1853年 | 19歳 |
江戸に行き、北辰一刀流に入門する。 |
1854年 | 20歳 | 土佐に帰る。ジョン万次郎との出会い攘夷思想を知り貿易航海術を学ぶ。 |
1855年 | 21歳 | 父・八平が他界。 |
1856年 | 22歳 | 再び江戸へ行き、剣を習う。 |
1858年 | 24歳 | 戊午の密勅から安政の大獄 山内容堂が隠居する。 |
1861年 | 27歳 |
土佐勤王党に入る。(武市)土佐の敵(部下)を斬る。 |
1862年 |
28歳 |
脱藩し、江戸へ勝海舟を殺しに行くが、圧倒されて師事するように。 |
1864年 |
30歳 |
土佐勤王党が壊滅 |
1865年 |
31歳 |
長崎に亀山社中(日本初の株式会社)を設立。(のちの海援隊) |
1866年 |
32歳 |
薩長同盟の成立 |
1867年 |
33歳 |
大政奉還 |
2.坂本龍馬の活躍した「薩長同盟」とは?
では、そんな坂本龍馬が活躍した
「薩長同盟」とは一体何だったのでしょうか?
そして、当時、薩摩と長州の関係は
悪化していたと言われていますが、
坂本龍馬は一体どのような立ち位置にいたのでしょうか?
ここからは坂本龍馬が最も活躍した
「薩長同盟」について紐解いていきます。
薩摩と長州の関係悪化の原因
1866年、薩長同盟を組むことになったわけですが、
なぜ、その立役者となった坂本龍馬が
凄いと言われているのか?
そして、なぜ坂本龍馬が
薩摩藩、長州藩と関係を持てるようになったのか?
このことを紐解くためには、
薩長同盟が実現する3年前の1863年に起こった、
「八月十八日の政変」まで遡る必要があります。
画像出典:https://blogs.yahoo.co.jp/tentuji/63794023.html
八月十八日の政変とは、長州が朝廷に
自分たちに有利な勅(天皇の命令)を出させようと画策した結果、
これを知った孝明天皇が怒り、長州を京都から追い出してしまった…
という事件なのですが、この事件に薩摩藩が絡んでいたのです。
というのも、元々長州が孝明天皇に提案していたのは、
「神武天皇陵や春日大社を参詣して、攘夷を祈願しませんか?」
という趣旨のものでした。
ですが、その真の目的が
「倒幕のための兵を挙げること」
だったと言われているのです。
そして、その真の目的を天皇側にバラしたのが
薩摩藩と会津藩だったという説があるのです。
つまり、長州藩からすれば、
自分たちの計画を薩摩藩によってバラされ、
しかも、そのせいで京都からも追放されたわけですから、
薩摩藩に対して激しい恨みを抱くようになったのです。
さらに、京都から追い出されてしまった長州は
黙ったままでもいられず、兵を挙げ、直接、蛤御門にまで
物申しに行きました。(=禁門の変)
そして、そこで立ちはだかったのも薩摩藩だったのです。
元々、戦局は長州藩有利だったのですが、
西郷隆盛率いる薩摩藩の登場で、一気に戦局は変わり、
最後は長州藩の惨敗で終わったのです。
しかも当時、薩摩は会津と同盟を結んでいました。
- 薩摩単体ではなく、同盟を結んで長州を追い出そうとしたこと
- 薩摩のせいで戦いに敗れたこと
この二つが重なって、長州としても、
さらに薩摩のことが気に入らなくなったのです。
そして、長州は結局、
完全に京都から追い出されてしまうのです。
この事件以降、長州は薩摩と会津のことを
『薩賊会奸』と呼び、深い憎しみを持つようになりました。
さらに、京都を追い出されてしまった長州が地元に帰ると、
今度は四カ国艦隊(英、仏、蘭、米)の砲撃を受けてしまいます。
つまり、長州はこの時、
日本では薩摩藩に京都を追放され、世界からも追い詰められるという
踏んだり蹴ったりな目に合ってしまうのです。
もう完全に「滅ぶ直前」だったと言えるでしょう。
そして、極限状態にまで追い込まれたら長州は、
藁にもすがる思いで、とにかく誰でもいいからと
助けを求めていました。
そこで登場したのが坂本龍馬だったのです。
坂本龍馬と長州藩の出会い
坂本龍馬は海外の情勢に詳しく、
さらに言えば、巨大な勢力を持つグラバーとも仲が良かったため、
絶望的な状況の長州藩としては、
坂本龍馬の存在はまさに「救世主」だったのです。
他にも、「海運」といった自分たちでは到底知り得なかった
情報も教えてもらえるため、まさに状況としては、
坂本龍馬の意見が非常に通りやすい状況
だったのではないかと言われています。
さらにこの時、
同じタイミングで長州側も薩摩の船を砲撃で沈めてしまいます。
そして、薩摩の船の中には航海術に詳しい人たちも
数多く乗っていたため、その多くが亡くなってしまいました。
つまり、長州が坂本龍馬を求めた時、
同じタイミングで薩摩側としても、
「海」に精通した人材が不足してしまったのです。
その結果、薩摩も航海術に詳しい坂本龍馬を
指導者として招くことになったのです。
つまり、もはや犬猿の仲と言っても良いほど仲の悪かった
長州と薩摩の両方が、坂本龍馬に対して「ぜひ指導をして欲しい!」と
求める状況が作り出されたのです。
こうして、坂本龍馬は
長州と薩摩の両方の藩に深い関係性を持つようになったのです。
さらに、中立な立場でもあったため、
後に成立する薩長同盟の間にも入ることができたのです。
つまり、お互いに憎み合っている
長州と薩摩を結びつけること自体が
「不可能」とも言える過酷な状況だったのですが、
坂本龍馬の置かれた立ち位置も相まって、
「薩長同盟」という仕事を成し遂げることができたのです。
まさにこれは、坂本龍馬にしか
できなかった仕事だと言えるでしょう。
この一連の流れが、
一般的に解釈されている薩長同盟の流れです。
薩長同盟に隠された秘密
ですが、この薩長同盟の流れは、
現代では数多くの疑問点が指摘されています。
そして、それは「陰謀論」とも言われたりするのですが、
非常に信憑性の高いものだとも言われています。
ここからは、その「陰謀論」を
紐解いていこうと思います。
では、まず全体の構図を少し整理しましょう。
坂本龍馬は、
下の図ように薩摩と長州の間に入っていました。
さらに、その坂本龍馬が
グラバーと繋がっているのです。
そして、そのグラバーは、
ロスチャイルド家の系列会社であった
「マセソン商会」の社員として働いていたのです。
つまり、グラバーの行動の裏には、
常にロスチャイルド家の思惑が存在していたのです。
ロスチャイルド家と言えば、
「陰謀論」といえば真っ先に名前の出てくる人物ですが、
歴史上の大きな事件の背景には、この「ロスチャイルド家」が
関わっていることが非常に多いとされています。
そして、坂本龍馬の生涯を振り返ると、
一つの疑問が浮かび上がります。
最初のところでも紹介したとおり、
坂本龍馬の家系はそこまで裕福なものではありませんでした。
ですが、坂本龍馬は脱藩後間もなく、
日本初の株式会社を設立しています。
つまり、
「なぜ、脱藩して金もない坂本龍馬がいきなり会社を作れたのか?」
ということなのです。
しかも、坂本龍馬はこの時、
船まで持っていたと言われています。
この時点で明らかにおかしいのです。
そして、その真相として、
坂本龍馬はグラバーからお金を貰っていたと言われているのです。
では、なぜグラバーは坂本龍馬に対して
資金援助をしていたのでしょうか?
もちろん、資金援助をすると、坂本龍馬にとって、
グラバーは恩人的な立ち位置になります。
すると、グラバーからしたら
坂本龍馬は扱いやすい存在となるのです。
そして、そうすることによってどうしても成し遂げたい
「とある思惑」がグラバーにはありました。
グラバーは坂本龍馬に薩長と長州の間に入ってもらい、
どうしても「薩長同盟」を成立させたい理由があったのです。
それは、
「幕府軍VS倒幕軍」
という戦争を起こすことでした。
戦争を起こせば、武器が消費されます。
すると、武器を売っている側としては
莫大な利益を手にすることができるのです。
だからこそ、武器を売る側であるグラバーとしては、
長州と薩摩を仲良くさせ、幕府との戦争を起こしてくれれば、
非常にありがたい展開になるのです。
そのために、グラバーは
坂本龍馬への資金援助をしていたのです。
数々の事件に隠された共通点
そう考えると、坂本龍馬が長州藩や薩摩藩と
関係を持つようになったタイミングでの様々な事件についても、
とある共通点が浮かび上がってきます。
例えば、長州が京都から追放された時、
タイミングを見計らったかのように四カ国艦隊(英、仏、蘭、米)が
長州に対して攻撃してきました。
この攻撃がきっかけで、国内でも孤立し、
世界の中でも孤立してしまった長州は、
貿易にも詳しく、グラバーとも仲の良い坂本龍馬を
指導者として迎えるようになりました。
しかも、そのタイミングで、
数多くの航海術に詳しい人材を乗せた薩摩の船が沈み、
人材不足に陥った薩摩も、坂本龍馬を迎えることになっているのです。
この二つの出来事が重なっているのは、
果たして、本当に偶然だったのでしょうか?
そして、実際に薩長同盟が成立し、
幕府軍と倒幕軍の戦争が起こって、
その戦争の御蔭で武器商人(グラバー)は
莫大な利益を手にすることになります。
そう考えると、
薩摩船が沈んだのも、四カ国の艦隊が長州を襲ったのも…。
坂本龍馬を薩摩と長州の両方に入れるために
グラバーが仕組んだことなのではないか?と
考えることができるのです。
さらに、薩摩と長州に入ったきっかけも、
坂本龍馬が自ら「働かせてください!」と言ったわけではありません。
あくまで、長州と薩摩から「助けてください!」と言われたから
関係を持つようになっているのです。
つまり、自分から頼み込んで政治に入るよりも、
格段に自分の意見が通りやすい状況になっていたのです。
しかも、坂本龍馬自身としても、
薩摩と長州と関わるようになるまでに、
何か特別な実績を出していたわけではありません。
元々所属していたコミュニティを抜けたぐらいで、
身分があったわけでもなく、剣が強いくらいで
それ以外は特にやっていませんでした。
あえていうと株式会社を作ってはいますが、
会社を作っただけで、政治にも口出しできるような
影響力を持てるのか、というと疑問が浮かび上がるのです。
つまり、坂本龍馬にはそのバックに誰かがいたんだと。
そう考えるほうが自然になってくるのです。
そこで、
「坂本龍馬はグラバーのメッセンジャーだった」
というのが、「陰謀論」で言われていることなのです。
坂本龍馬が自分たちの思惑通りに薩長同盟を成立させ、
戦争を起こすきっかけを作ってくれるよう、
その裏でグラバーが、薩摩の船を沈めたり、
四カ国の艦隊に長州を攻めさせたりと、
全て根回ししていたのです。
もちろん、仮にグラバーが直接手を下さなくとも、
当時の長州は薩摩に相当恨みを持っていたわけですから、
「薩摩船沈めたほうがいいよ」と、そそのかすだけでも、
長州は薩摩の船を沈めていたかもしれません。
要は、薩長同盟は表では坂本龍馬が仲介をしたように見えて、
裏ではグラバーが動き、「そうなるように仕向けていた」ため、
完全な出来レースだったのではないかとも言われているのです。
ジョン万次郎の「陰謀論」説
さらに言えば、ジョン万次郎やグラバーと出会ったのも、
決して偶然ではなかったのではないかと言われています。
そして、ジョン万次郎がアメリカの手先だったという説があるのです。
ジョン万次郎は、アメリカ時代、
遭難状態から救出してもらった船、「ジョン・ハウランド号」の
船長であるホイットフィールド家の養子として暮らしていました。
そして、この「ジョン・ハウランド号」のオーナーは、
アメリカ大統領の「フランクリン・デラノ・ルーズベルト」の
祖父であるワレン・デラノです。
そのワレン・デラノは
中国でのアヘン販売で多額の財を成しており、
同じ中国の上海を拠点としてアヘン販売を行って企業がありました。
それが、ジャーディン・マセソン商会という
ロスチャイルド系の企業だったのです。
そして、このマセソン商会の日本支社がグラバー商会です。
さらに、ワレン・デラノは、
「黒船」に乗って日本に来航したペリーと
親友だったことも分かっています。
そして、ジョン万次郎は、アメリカへ行って日本に帰国し、
ペリーが幕府と締結した日米修好通商条約の時に
通訳として入っています。
そのジョン万次郎と坂本龍馬は土佐で繋がっている・・・。
さらに、ここで出てくるのが、
「坂本龍馬とグラバーを繋いだのもジョン万次郎なのではないか?」
という説です。
もしそうだとすると、
坂本龍馬の行動は全て仕組まれたものだったのでは・・・?
という疑問すら浮かび上がってくるのです。
実際に、坂本龍馬は脱藩した後、
すぐグラバーのいた長崎に行って、
航海技術や貿易の仕方を学んでいます。
それも、ジョン万次郎から航海技術や貿易の重要性を学んでいたからなのです。
そして、日本でこの二つを学ぼうと思ったら
当時は長崎しかありませんでした。
しかも、坂本龍馬が薩長同盟を成立させた時、
この二つの藩に入ることができたのは、
この航海技術と貿易への詳しさがきっかけだったのです。
つまり、
- ジョン万次郎の紹介で坂本龍馬はグラバーと繋がり、
- そのグラバーが坂本龍馬を薩摩と長州の両方に入れるよう育て上げ、
- さらに、両藩にとって坂本龍馬が必要になるような事件を起こし、
- それがきっかけで薩長同盟が成立して、
- 「幕府軍VS倒幕軍」の戦争が起こった・・・。
そんな流れが裏であったのではないかと考えられているのです。
そのため、「薩長同盟」は坂本龍馬がすごかったと言うよりも、
裏で動いていた力のおかげだったんじゃないか?と、
「陰謀論」を唱えている方は考えているのです。
要は、最終的にグラバー(ロスチャイルド家)としては、
「VS幕府」の構造を作り上げたかった。
日本の中で対立構造を作りたかったのです。
そのためには「薩長同盟」が必要で、
そこで最も扱いやすかったのが坂本龍馬だったのではないか?と。
そして、坂本龍馬のせいで江戸幕府が倒されたわけですから、
そこに反感を覚えた勢力から命を狙われるようになるわけです。
そうやって起こったのが「寺田屋事件」でした。
画像出典:https://kotobank.jp/
さらに、寺田屋事件で難を逃れた後、
薩摩に行っている坂本龍馬ですが、これも、
「本当にハネムーンなのか?」
「怪我を治しに行っただけなのか?」
と言われています。
つまり、完全に水戸黄門と同じ原理だったのではないか?と。
水戸黄門は、日本全国を旅したと言われていますが、
あれは、本当はそれぞれの藩の視察だったと
考えられています。
要は坂本龍馬も、ハネムーンでも、傷の治療でもなく、
敵情視察のために薩摩藩へと行ったのではないか?
ということです。
しかも、その翌年が大政奉還ですから。
・・・ということで、
以上が薩長同盟が成立するまでの流れと、
「その裏でこういうことがあったんじゃないか?」
とする「陰謀論」の全体像になります。
3.坂本龍馬と「大政奉還」
では、次は坂本龍馬の動きもあって成立した
「大政奉還」について解説していきます。
大政奉還とは
「大政奉還すべし」と徳川慶喜に
建白書(目上の人に意見するための書物)を提出したのは
土佐藩主・山内容堂でした。
そして、その草案(法律の原案)となったのが、
有名な「船中八策」というものです。
船中八策とは、
坂本龍馬が長崎から京都に戻る船の中で、土佐藩の後藤象二郎に対して、
新しい日本の国家体制について8つの政策を進言したことを指します。
その内容が以下の通りです。
- 大政奉還
- 上下両院の設置による議会政治
- 有能な人材の政治への登用
- 不平等条約の改定(日米修好通商条約のこと)
- 憲法制定(憲法については、外国に習え)
- 海軍力の増強
- 御親兵の設置(富国強兵せよ)
- 金銀の交換レートの変更(金の流出があったので、金銀レートの見直し)
このような新国家体制としての政策を
坂本龍馬は掲げ、進言しました。
そして、「大政奉還」を行ったのは、
三つの狙いがあったと言われています。
一つ目は、
「将軍家の影響力を新国家体制になった後も残しておく」
という狙いです。
将軍家が権力を取り上げられ、
無様な形で去っていくのではなく、
「帝(みかど)に権力をお返しします」
そう自ら言って尽くすのであれば、たとえ政権を返上しても、
一大名として新政府内で発言力が残すことができるからです。
これが大政奉還の一つの狙いでした。
二つ目の狙いは、
「日本が欧米列強に対する対抗力を維持すること」
でした。
もし仮に「幕府軍VS倒幕軍」で国内で戦争をしてしまったら、
日本全体の国力は疲弊してしまいます。
そうなると、当時の欧米の軍事力には
対抗できなくなってしまうのです。
そこで、内戦で無駄に国力を消耗させることなく、
喧嘩している諸藩をまとめることで、
欧米に対する対抗力を持つこと。
それが、もう一つの大政奉還の狙いでもありました。
そこで、坂本龍馬はこの案を、土佐藩の後藤象二郎に伝え、
「土佐藩主・山内容堂にこの案をもって幕府に進言してください」
と伝えたのです。
この結果、大政奉還は、
表向きは土佐藩の山内容堂が進言したことですが、
実は、裏で坂本龍馬が動いていたとも言われています。
そしてここには、
坂本龍馬の三つ目の狙いがありました。
それは、「土佐藩の影響力を維持する」こと。
当時、薩摩と長州の力があまりに強大だったので、
もしそのまま新国家体制に移ってしまったら、
国の要職の全てを薩摩と長州に
持っていかれる恐れがあったのです。
そこに対して、土佐藩が食い込むために、
土佐藩主の山内容堂にこの建白書を出させたということです。
船中八策の裏に隠された意図
しかし、この坂本龍馬の動きにも、
とある「陰謀」が隠されていたのだと考える人もいます。
つまり、坂本龍馬の提出したバックには、
さらに裏のゴーストライターがいたというのです。
それがロスチャイルド系なのです。
つまり、一般的には、坂本龍馬が船中八策を進言し、
大政奉還の発案したからこそ、日本が一つにまとまることが
できたと認識されています。
ですが、これも坂本龍馬は完全に
踊らされてるだけだったというのです。
とはいえ、もしそうだとすると、
一つの疑問が浮かび上がります。
薩長同盟では、ロスチャイルド側としては、
「幕府軍VS倒幕軍の対立構造を生もう」
という思惑がありました。
ですが、坂本龍馬の進言した「船中八策」によって、
大政奉還が起こり、日本は一つにまとまっているのです。
実は、この矛盾にはロスチャイルド側の
とある落ち度があったといいます。
というのも、当時、土佐藩だけの建白書では、
力関係的に将軍家は大政奉還の要求を飲まないはずだと
考えられました。
そして、
「土佐藩からの建白書を断った!」という事を理由に、
さらに幕府と倒幕軍が戦う理由を作り出そうとしていたのです。
ですが、予想に反して徳川慶喜は大政奉還を受け入れました。
海外に狙われている情勢も理解した上で、
「自分たちの発言権を残しながら日本がまとまるのであれば。」
と賢い判断をして大政奉還を受け入れたのです。
ちなみに坂本龍馬はこの時、
ハネムーンを装って、寺田屋事件の後に薩摩へ行き、
建白書が通るよう根回しをしていました。
これは「建白書」に関して、
事前に薩摩からのお墨付きをもらうためだったのです。
このことも相まって、将軍家を動かすことに成功しました。
とはいえ、薩摩もこの当時は「討幕」を狙っていたのですが、
なぜ「お墨付き」を出したのか?
これも、
「自分たちがお墨付きを出したところで、
まさか将軍家は大政奉還を受け入れるはずがないだろう。」
とタカをくくっていたからだったのです。
つまり、薩摩の思惑としても、
将軍家を「大政奉還」という無礼な進言で煽ることで、
さらに対立を深めようとしていたのです。
しかし、蓋を開いてみると、
建白書は幕府に受け入れられ、通ってしまった。
それは、薩摩にとっても、
ロスチャイルドにとっても予想外だったのです。
そして、
「これで、日本がまた一つにまとまってしまったら困るぞ…。」
そう思ったロスチャイルドは、次なる手を打ちます。
それが、「王政復古の大号令」だったのです。
これによって、幕府軍(将軍家)を徹底的に排除し、
対立構造を再度作り出すことを画策するのです。
つまり、もしも坂本龍馬が
ロスチャイルドのメッセンジャーだったとしても、
- 大政奉還を成立させたこと
- 薩摩藩から建白書のお墨付きをもらったこと
この二つは大きな功績だと言えるのです。
ですが、この大政奉還が成立した15日後、
坂本龍馬は暗殺されてしまいます。
では、この暗殺の真実は何だったのか?
ここからはその秘密に迫っていきましょう。
4.坂本龍馬の暗殺について
坂本龍馬は大政奉還から15日後、
近江屋事件によって暗殺されました。
ですが、その死には不可解な点が多く、
坂本龍馬の死から150年余り経過した現在でも、
坂本龍馬暗殺の黒幕について様々な説が挙がっているのです。
常識にとらわれずに立場を変えて動いていた坂本龍馬は、
多方面に敵を作っていました。
大政奉還がなされたことによって、
政権を返上し、江戸幕府は終わりを告げましたが、
大政奉還の立役者とされている坂本龍馬も
このタイミングで暗殺されているのです。
そのため、一般的には、
「幕府側の恨みを買ってその腹いせとして殺されてしまった。」
という筋書きが最も有力だと言われています。
では、実際にどんな説が唱えられているのか?
坂本龍馬暗殺について、
現在よく言われている「黒幕説」について
まずは解説していきます。
見廻組説
江戸時代末期、幕臣によって結成された
「京都の治安維持組織である「京都見廻組」によって暗殺された」
とする説です。
当時の政権として、大政奉還に反対していた
佐幕派(幕府を補佐する立場)が多数いました。
つまり、討幕のきっかけを作った坂本龍馬のことを恨んでおり、
見廻組はその配下に置かれていたため、
暗殺するには動きやすかったのではないかと
いわれています。
見廻組は、佐々木只三郎(ささきただざぶろう)が指揮を執り、
坂本龍馬暗殺を行なった可能性が高いといわれています。
ですが、見廻組に坂本龍馬暗殺の記録がないため、
その確証はありません。
新選組説 伊東甲子太郎(いとうかしたろう)
坂本龍馬暗殺の現場に、
新選組隊員の遺留品(鞘と下駄)が残っていました。
それについて元新選組の隊員である
伊東甲子太郎(いとうかしたろう)、
およびその他のメンバーが
「遺留品の鞘が新選組の原田左之助(はらださのすけ)のもの」
と証言していることから、
新選組によって暗殺されたという説です。
土佐藩説
坂本龍馬の故郷である土佐藩ですが、
下級武士であった坂本龍馬の活躍を面白く思わない
勢力がありました。
それが「上級武士」と、坂本龍馬と遺恨がある
土佐藩の家老・後藤象二郎(ごとうしょうじろう)と
手を組んだ「下級武士たち」です。
この両者から、「裏切り者」として
憎まれていたのではないかとされているのです。
また、犯人が発した言葉が、
「土佐なまり」だったという話からも、
土佐藩士なのではないか、とする説があります。
薩摩藩説
薩摩藩は、大政奉還が行われるまでは、
あくまでも武力によって倒幕しようと考えており、
帝からも徳川慶喜追討の勅使(天皇の使者)をもらっていて、
その手はずを整えていました。
ですが、大政奉還が成立し、
その大義名分がなくなってしまったのです。
そこで、西郷隆盛が邪魔な坂本龍馬に刺客を送って、
暗殺するように動いたのではないかという説があるのです。
とはいえ、西郷と坂本龍馬の仲を考えると、
西郷がそのような行動に出る可能性は
あまりないのではないかと考えられています。
紀州藩説
1867年、大政奉還が行われた年に、
坂本龍馬の率いる海援隊の船「いろは丸」と
紀州藩の船「明光丸」が衝突事故を起こしていたのです。
その訴訟問題でいざこざがあり、
紀州藩は敗訴となってしまいました。
そこで、徳川御三家のプライドを踏みにじられたため、
坂本龍馬を恨み、暗殺したという説です。
以上、一般的に言われている5つの説をご紹介しました。
現状、一番筋が通りそうということで、一般論としては、
見廻組の佐々木只三郎が犯人という説が有力になっています。
ですが、実は、火鳥風月では、
ご縁があった歴史学者の方達全ての意見を統合し、
一つの説を提唱しているのです。
実はこの説を、
先日「火鳥風月」のイベントに来てくださった
中森護先生、小名木善行先生に伺ったところ、
「その説はかなり面白いですね!」
と言っていただきました。
そこで、これからその火鳥風月の唱える「仮説」について
解説していこうと思います。
5.火鳥風月的「坂本竜馬暗殺」の解釈
火鳥風月では、
「佐々木只三郎はフェイクで、真相は全然関係ないところにある」
と考えています。
というのも、実は、坂本龍馬が殺された日に、
とあることが起こっていたのです。
なんとその日に、
和歌山の紀州藩から海援隊に巨額のお金が動いていたことが分かっています。
では、それは一体何のお金だったのでしょうか?
坂本龍馬暗殺の前に起きた不可解な事件
まず、薩長同盟の翌年に、
「いろは丸沈没事件」というのがありました。
「いろは丸」とは船の名前で、
坂本龍馬が仲介し、伊予松山藩が買った船のことを言います。
これは割と小さめの船だったのですが、
坂本龍馬は伊予松山藩に、
「この船を1日500両で貸して欲しい」
とお願いをし、自分たちが運輸するのに使おうとしたのです。
そして、500両を払い、借りて行った最初の航海の日。
なんと、その日にこの船が沈没することになったのです。
原因は何だったのか?ということですが、
ここで出てくるのが紀州藩なのです。
紀州藩の船「明光丸」がその時、
瀬戸内海を走っていました。
大きさは「いろは丸」の4、5倍はあろうかというくらい、
非常に大きなもので、例えるなら、トラックと原チャリくらい
大きさが違ったのだそうです。
そして、この2つの船が瀬戸内海でぶつかり、
それによっていろは丸が沈んでしまいました。
このことで、坂本龍馬は激怒します。
瀬戸内海で船は沈んでしまったため、
広島にある「鞆の浦」というところで、
坂本龍馬が憤りながら「賠償金を払え!」と
紀州藩側に要求しました。
そして、ここで坂本龍馬は、
相当な金額をふっかけるのです。
「鉄砲400丁に重火器、さらには金塊まで乗せてたんだ!
相当な損害だから、金を払え!!」
と。
実は、この時の日本の法律では、
船が向き合った際、小さい船が大きい船に航路を譲らないといけない、
という法律があったのです。
なので、
「紀州藩が払う必要はないじゃないか!」
というのが紀州藩の主張なわけです。
主張としては正論なのですが、
坂本龍馬は続けてこう言います。
「国際法では違う!
お互いの船が向き合ったら、
お互いが右に避けて衝突を避けるのが国際法だ!
だから紀州藩の方が悪いだろ!」
これは日本国内の話なので、完全に詭弁なのですが、
なぜか坂本龍馬は国際法をその議論に持ち出してきたのです。
さらに、この衝突事件そのものにも疑問点がありました。
なんと、紀州藩の明光丸は、坂本龍馬の乗るいろは丸に
一度衝突した後、さらにもう一回ぶつかってきたのです。
もちろん、二回もぶつかる必要はありません。
つまり、わざと二回激突して沈めたようにしか思えないのです。
確実に沈めないと困る事情があったのです。
「いろは丸沈没事件」を丸め込んだ第三者の存在
そして結局、「いろは丸沈没事件」に関する
坂本龍馬の主張は通りませんでした。
ですが、この時に、ある人物が登場します。
それが、当時、亀山社中の経理を務めていた岩崎弥太郎です。
(岩崎弥太郎は、後に三菱財閥を創業者し、初代総帥となります。)
岩崎弥太郎が出てきて、この話をうまく丸めてくれたのです。
そして、結果として、
紀州藩にお金を払わせることになりました。
しかし、実はこの「いろは丸沈没事件」について、
今になって分かったことがいくつかあります。
まず、鞆の浦にある、
いろは丸が沈んだところに沈没船調査が入ったのです。
そして、調査の結果、そこからは重火器も
金塊も一切出てこなかったのです。
出てきたのは、皿や家具だけ。
つまり、坂本龍馬が言った事というのは、
そもそもハッタリだったのです。
だからこそ、確実に船を沈めるために
2回もぶつかりに行ったのでしょう。
そしてもう1つ気がかりな点がありました。
船には水夫は乗っていたようですが、
上官らしい人は乗っていなかったのです。
これもおかしな話で、普通、
上官もいない船が水夫だけで進んでいる、
ということはありません。
まるで、船が沈むことを知っていたかのようです。
こんな風に、
この事件はかなりおかしい点がいくつもあります。
違和感だらけで、まるで、
「あえて沈めにきたんじゃないか?」
と思ってしまうような事件だったのです。
ですが、何はともあれ、
弥太郎がうまく丸め込んでくれたおかげで、
紀州藩がお金を払うことになりました。
そして、その支払の日が坂本龍馬の暗殺日だったのです。
紀州藩としては、坂本龍馬に対して怒りはあったとは思いますし、
これだけ見ると、坂本龍馬暗殺も紀州の仕業と考えられなくもないでしょう。
しかし、実は紀州のせいかと言われると、
そういうわけでもないのです。
この辺からは一般論ではなくなってくるのですが、
坂本龍馬暗殺の真犯人として新たな人物が浮上してきます。
それは一体誰なのか・・・?
坂本龍馬と巨額のお金の真実
まず、紀州(和歌山)というのは熊野本宮大社がある場所です。
ちなみに、熊野には八咫烏が祀られていますよね。
和歌山といえば、日本の裏組織にとって、非常に重要な場所なのです。
「裏組織」というと
なんだか安っぽい陰謀論みたいになってしまいますが、
ここではあえて、そう表記させいただきます
というのも、和歌山県は日本の歴史においては、
「日本の裏組織の本拠地」といってもいいところなのです。
そして、その裏組織は、相当なお金を持っています。
もちろん、ロスチャイルドとも繋がっています。
さて、ここからが重要な部分なのですが、
「いろは丸沈没事件を通じて、裏の組織がお金を動かそうとしたのではないか?」
という仮説が立てられるのです。
どういうことでしょうか?
裏組織、裏社会のお金というのは、
表向きには動かせないものです。
実際、戦後においても、
それらの存在が表の大きな動きに乗じて、
その裏で巨額のお金を動かしていたのだといいます。
例えば、
- フィリピンの黄金ファンドから、日本軍がこっそり金を持ってきた。
- 白村江の戦いでは、朝鮮半島の金を動かすために表向きには戦争をし、裏で金を運んでいた。
という事が分かっています。
そして、金を運ぼうと思うと、
大きな船で運ばないといけません。
しかし、急に大きな船が動くとなると、
それだけで完全に怪しまれてしまうのです。
そこで、「戦争」という形で多くの兵隊を送り込んだ中に、
金を持って帰ってくる人たちを紛れ込ませていたのです。
要するに、裏でお金を動かす時というのは、
表向きに何らかの大きな事件を起こして、
その裏で動かす「表裏のセット」で行うということです。
そして、「いろは丸沈没事件」に戻るのですが、
この事件も、誰かの意図があったとしか思えない状況なのです。
しかも、それを起こしたのが
たまたま「紀州藩」だったということは、
「紀州(和歌山)にある裏組織がお金を動かそうとしたのではないか?」
と考えることが出来るということです。
坂本龍馬暗殺の真実
そして、いよいよ本題に戻ります。
この大きなお金の流れを観察した上で、
「坂本龍馬を暗殺したのは結局誰だったのか?」
ということです。
まず、坂本龍馬を殺しにきた人が
自ら名乗ったのは有名な話です。
近江屋で、
坂本龍馬がしゃもを食べている時に人がきて、
「十津川村の郷士です」
と名乗ったのです。
では、この「十津川村」には
どんな意味があるのでしょうか?
十津川村というのは、すごく不思議なところで、
面白いことに、寺はひとつもなく、神社しかありません。
十津川村というのは、熊野からもいけるところにあります。
そして、十津川村に住む人というのは、
日本の尊王の心に厚い方が多数いたそうです。
その人たちが坂本龍馬のところに来たというのは、
暗に「裏の組織からの刺客だった」ということをにおわせているのです。
十津川村のトーテムは「ヤタガラス」です。
トーテムとは、その村の象徴となるものが祀られるのですが、
十津川村ではそれが「ヤタガラス」なのです。
要は、「十津川村の郷士です」と名乗った者は、
暗に「裏組織」からの指示で動いている
ということを伝えたかったのです。
では、そのメッセンジャーは誰の差金だったのか?
それが、ロスチャイルドを含む裏の組織だったのです。
そして、ロスチャイルドの影で動いていたのが
「岩崎弥太郎」だったのです。
というのも、岩崎弥太郎と
坂本龍馬の出会いの始まりは海援隊からです。
この時に後藤象二郎が
「金のことはよくできるやつだから、
コイツを海援隊の経理に入れてやってくれ。」
と言って連れて来たのが岩崎弥太郎でした。
そして、偶然かもしれませんが、
岩崎弥太郎との出会ったタイミングを境に、
坂本龍馬はトントン拍子に、薩長同盟、大政奉還など
大きな出来事で活躍していきました。
なので、この出会いが、
坂本龍馬にとってかなり大きな
出来事だったのかもしれません。
しかも、この時に坂本龍馬は暗殺されましたが、
岩崎弥太郎は生き残り、金持ちになって、
三菱を作っているのです。
三菱のマークは、
どことなく徳川の葵の紋に似ているように見えますが、
岩崎弥太郎の元々の家紋と、葵の紋を足して作られたマークが
三菱のマークとして使われるようになりました。
画像出典:https://ja.wikipedia.org/
話を戻すと、結局は、
岩崎弥太郎がグラバー(ロスチャイルド)によって
動かされてたのではないか。
つまり、
「本当のメッセンジャーであり、黒幕は、
坂本龍馬ではなく岩崎弥太郎だった」
ということです。
坂本龍馬が表のメッセンジャーをしていて
岩崎弥太郎が裏のメッセンジャーとして
暗躍していたのではないかと思います。
坂本龍馬は思いがアツく、常に理想を追い求めていたので、
その反面、グラバーや弥太郎たちからすると
彼らが裏で坂本龍馬をコントロールしやすく、
扱いやすかったのかもしれませんね。
坂本龍馬のような
熱い人間が活躍してくれていたことで、
彼らは暗躍しやすかったのです。
そして、「いろは丸沈没事件」に関しては、
「もともと商人で、今まで働いて来たし、ちょっとくらいもらってもいいだろう」
と坂本龍馬がお金をくすねようと思って起こした事件なのか。
それとも、岩崎弥太郎が、
裏で金を移動するために坂本龍馬を扱っていたのか。
結果的にはどうだったのかは分かりません。
ですが、
「岩崎弥太郎が絡んでいる。」
ということは、ほぼ間違いないでしょう。
そして、坂本龍馬暗殺の当日。
いろは丸沈没事件のお金を支払われる日でもありましたが、
坂本龍馬と中岡慎太郎は、シャモを食べながらのんびりしてたのです。
その時に、岩崎弥太郎はその場所にはいませんでした。
そして、岩崎弥太郎のところに
「紀州藩からお金が支払われた」
という知らせが来た頃に、龍馬は暗殺されたのです。
お金が支払われると同時に
坂本龍馬は暗殺されたのです。
いわば、裏の組織にしてみたら
坂本龍馬は「お役御免」だったのです。
もちろん、その背景には、
お金をくすねようとしたから殺したのか、
裏の事情を知り過ぎたが故に、新しい政府にいると
困る存在だったから殺されたのか。
様々な理由があるでしょう。
でも、要は、裏で動かしてきた人間にとっては、
もう坂本龍馬は用無しだったのです。
これが、火鳥風月的「坂本竜馬暗殺」の真実です。
まとめ
いかがでしたか?
かなりのボリュームとなっているので、
一気に全てを読むのは難しいかもしれません。
そして、今回は火鳥風月として「坂本龍馬」の真実に迫りましたが、
その説以外にも、様々な方が説を唱えています。
もし、あなたにも自分なりの説があれば、
ぜひコメント欄で教えていただければと思います。
それでは、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。