明治維新とは丨全体像から陰謀論まで世界一わかりやすく解説

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こんにちは、こがみのりです。

今回は、明治維新」についてお伝えしていきます。

おそらく「明治維新」という言葉自体は

聞いたことがあるでしょう。

そこで、今回の記事では、

「明治維新とはどんな出来事だったのか?」という全体像に加えて、

その裏で動いていた様々な思惑についても考察し、

解説していきます。

 

明治維新は登場する人物も多く、

また、黒幕や陰謀論説もたくさんあるので、

非常に複雑で、全体像を一挙に捉えることは非常に難しいでしょう。

ですが、この時代はそれだけ日本という国、

そのものが動いた時代でもあります。

そこで、ここできちんと明治維新の流れを掴んで、

「当時の日本人はどんな境遇に置かれ、どんな意思を持って動いていたのか?」

という部分を特に学んで貰えれば思います。

1.明治維新とは

まず、明治維新とは、

およそ260年間続いた江戸幕府が新勢力に討たれ、

新政府が立ち上がるまでの一連の改革のことを言います。

そのため、例えば教科書では、

  • 鎖国中の日本に、突然、ペリー率いる黒船が来航。開国を迫る。
  • 「今の日本の国力では諸外国に歯が立たない!」と思い立った志士たちが討幕を目論む
  • 幕府が倒れ、「大政奉還」によって幕府が朝廷に政権を返上し、徳川の時代が終わる。

このあたりの一連の流れが明治維新と言えるでしょう。

そして、この明治維新こそが、日本が近代国家を築くための

大きな土台になったとされています。

2.明治維新に対する現代の評価や解釈

また、実は明治維新に対する、

現代の評価や解釈にも大きく分けると

以下の二つに別れています。

それが、

  • 「明治維新によって日本が良くなった」という明治維新肯定派
  • 「明治維新が日本をダメにした」という明治維新否定派

という二つの意見です。

そこで、まずはこの二つの意見について

解説していこうと思います。

2-1.明治維新肯定派

明治維新肯定派の典型として有名なものが、

いわゆる「司馬史観」と呼ばれる歴史の見方です。

歴史小説家・司馬遼太郎の作品に現れる

歴史的な価値観を司馬史観と呼ぶのですが、

これはとてもシンプルに言うと、

「戦時中の日本は最悪で、明治維新の頃の日本は凄かった

という考え方のことを言います。

 

司馬遼太郎の作品で有名なものには

  • 龍馬が行く
  • 燃えよ剣
  • 坂の上の雲
  • 翔ぶが如く

などがあります。

そして、これらの作品はどれも、

基本的には「戦前の日本」がネガティブな時代で、

それに対し、輝かしい古き良き時代として、

明治維新の頃の日本にスポットを当てているのです。

これが、肯定派の根底となる基本的な価値観です。

 

ちなみに、これはあくまで一般人に浸透しているレベルの解釈で、

司馬遼太郎本人が「司馬史観」として提唱したわけではありません

ですが、「肯定派」の一つの代表として

取り上げられることが多いのです。

2-2.明治維新否定派

一方で、

「明治維新は日本にとって良くないものだった」

とする立場が、いわゆる明治維新否定派とされる側の主張です。

そして、否定派の考え方として二つの説があります。

それが、

  • 明治維新は日本が“絶対主義国家”を目指した革命運動だった
  • 明治維新は日本が“近代主義国家”を目指した革命運動だった

という二つの説です。

ここで重要なのは、

どちらも「革命」だったとして考えているということです。

絶対主義国家とは

それまでの日本は、

「天皇(あるいは朝廷)」と「幕府」という二つの勢力があり、

その上で、幕府が主権を持って政治を行っていました。

そんな旧体制を滅ぼし、

政権を「天皇」の一つに絞る「絶対主義国家」に絞るための

クーデターこそが明治維新だったのではないか?

というのが否定派の意見です。

 

絶対主義国家とは、西洋のように、

絶対的な政権を握る一人の王様がいて、それに対して、

民が絶対服従するような形を取る国家のことをいいます。

そして、

「天皇を唯一とする国家になったせいで戦争が起こった」

というのが、「絶対主義国家」を唱える

明治維新否定派の意見というわけです。

 

さらに、この「絶対主義国家」を唱える否定派の中には、

明治維新の背景には、とある人々の思惑が潜んでいたのではないかと

考える人もいます。

それが、「長州五傑」と中心とした「長州藩」です。

 

長州五傑とは、

  • 井上聞多(馨)
  • 遠藤謹助
  • 山尾庸三
  • 伊藤俊輔(博文)
  • 野村弥吉(井上勝)

の5人のことを指し、この5人はヨーロッパへと渡り、

西洋で国家の治め方を学びました。

では、この5人が学んだ政治手法とはどんなものだったのか?

 

それが、

「一神教を使った国家の掌握方法」

だったのです。

そして、この「一神教」を「天皇」に置き換え、

「天皇を唯一とする国家を作り上げることで、

自分たちの思い通りの国家を作りたかったのではないか?」

とするのが、「絶対主義国家」を唱える否定派の意見です。

近代主義国家とは

また、近代主義国家とは、

その名の通り「近代化」を目指す国家のことを言います。

ですが、「否定派」の意見としては、

この「近代化」を皮肉して言っているのです。

 

開国して、西洋の武器を輸入したり、考え方を取り入れたりと

「近代化」を進めた日本でしたが、その流れの中で、

ドレスを着たり、ダンスをするようになりました。

それを

「白人のマネをするようになった」

と皮肉して捉えているのが否定派の意見です。

つまり、

「白人コンプレックス」的な物の見方をしている

ということです。

 

もちろん、当時の日本としては、

開国しないといけない理由はいくつもありました。

なので、「西洋のマネをしたかった」というわけではなく、

西洋がどんどん植民地を伸ばしてきていたため、

西洋の考え方も勉強し取り入れて

国力を保つ必要があったのです。

ですが、それを皮肉して言っているのが

「近代主義国家」を唱える否定派の意見なのです。

2-3.肯定派と否定派が生まれた背景

明治維新に対する肯定派と否定派の、

それぞれの主張する解釈や評価についてお伝えしましたが、

後世の人たちがどのような評価をつけようとも、

歴史上で起こった事実自体は変わりません。

ただ、その全く同じ事実を見る時に、

肯定的に捉える人もいれば、否定的に捉える人がいるのです。

では、なぜこのようなことが起こるのでしょうか?

 

それは、歴史の解釈に対して、

自分の人生や人に対する物の見方が現れているからなのです。

例えば、「司馬史観」を肯定している人は、

意識的なのか、無意識的なのかは分かりませんが、

「戦争に対してネガティブな意見を持ちたい」

と考える傾向にあります。

 

実際に、「司馬史観」という言葉を生んだ

きっかけでもある司馬遼太郎は、

自身も日本軍の戦車隊に配属され、

戦争の悲惨な状況を経験しています。

そのため、そこでの経験で生まれた戦争に対する

ネガティブなイメージがあるのです。

 

すると、やはりどうしても、

「自分の中にある暗い部分を隠し、輝く部分を作り出す」ような

作品作りになってしまうのです。

その結果、明治維新で活躍した

「幕末の志士」たちを英雄として描き、

「明治維新肯定派」として呼ばれる

「司馬史観」という言葉が生まれたのです。

 

そう考えると、もしかすると「明治維新否定派」の人たちは、

「絶対主義国家」や、「ブルジョア革命(市民革命)」に対して、

ネガティブなトラウマやコンプレックスを持っているのかもしれません。

 

つまり、歴史の見方は、

その人の心の表れだということです。

そこで、ここから明治維新の全体像を説明していく上では、

各出来事を否定的に捉えたり、肯定的に捉えたりするのではなく、

純粋に起こった出来事を観察することで、

「明治維新」について迫っていこうと思います。

3.明治維新前の日本の姿

明治維新が起こるに至った経緯を知るためには、

日本建国を行なった神武天皇にまで遡る必要があります。

 

「日本はそもそもどういう国だったのか?」

ということを念頭に置く必要があるからです。

3-1.シラスとウシハクとは

紀元前660年1月1日に神武天皇が

「建国の詔(みことのり)」を出して、

建国と即位を宣言されました。

原文は日本書紀にあり、そこには様々な

「日本人としての生き方」が書かれているのですが、その中で、

「日本は常に住む人全員が安心できる国家(=『シラス国』)である。」

と伝えられているのです。

 

古代の日本で使われる国の特徴に、

シラスとウシハクがあります。

シラスは、日本のことを指し、

「共存・共栄」のような意味を持ちます。

つまり、「天皇も民と共にある」ということです。

 

一方、ウシハクは、

「主人(うし)」が「履く(はく=所有する)」ということを意味し、

植民地支配をはじめとした「絶対支配」の意味があるのです。

 

日本は国のあり方として、

「天皇がいて、天皇の元に官僚の役割を持つ臣(オミ)がいる」

という体制で国を治めてきました。

そして、臣は天皇から民たちをお預かりして、

導き、守るために「臣」という権力を授かってきました。

 

民というのは元々、

天皇の大御宝(おおみたから)と呼ばれています。

つまり、誰も支配できないし、誰も搾取できないし、

誰のものにしてもダメなのです。

それがシラス国の日本の意味です。

 

そして、「臣」というのは、

天皇からその民たちをお預かりして、

民たちを導いたり、守ったりするための権力です。

権力は臣が自分のために使うものではなくて、

あくまでも民のために使う力なのです。

このシラス国という考え方は

江戸時代までずっと続いていました。

 

例えば、武士は刀を二本さしています。

なぜ、二本刺しているのかというと、

権力と責任の両方を持っているからです。

 

そして、二本の刀は

長い刀と短い刀(脇差)がありますが、

長い刀は、敵を切るためにあります。

ですが、「人を切る」ということには、

どんな事情であれ、必ず責任が発生します。

そして、その責任を果たすために

持っているのが短い刀なのです。

この刀は、自害して責任を取るためのものなのです。

 

すなわち、

大きな刀は、敵を切る権力

小さな刀は、自分を切る責任を意味します。

これは使うか、使わないかは別として、

この権力と自分に対する責任がセットだというのが、

武士が刀を二本差しにしている理由なのです。

そして、これがいわば「武士道」なのです。

 

少し武士道について触れておくと、

この武士にずっと叩き込まれてきた「武士道」の精神には

誠や知行一致、八徳など、様々な思想哲学があります。

その中でも一番大事なのは、

八徳の中の「悌(てい)」です。

悌(てい)とは、子供や高齢者、女性をいたわるなど、

弱者を思いやり、守るという考え方のことを言うのです。

 

他にも、惻隠の情(そくいんのじょう)という、

武士にとって大事な相手を思いやる思想があります。


これは例えば、勝負した時に負けた

相手への思いやりに現れます。

実際、剣道では、相手を思いやるために

試合後はどちらも礼をして終わります。

これはある意味では、

「勝敗が分かりづらい」

ということでもあるのです。

 

お互いに慎ましく礼をして、

もちろんガッツポーズはありません。

武士道というのは、

とにかく下に対する思いやりが強いのです。

そして、この武士道こそが

「シラス」に対する考え方の上に立っているのです。

これが明治維新までの日本の姿でした。

ですが、明治維新の後にそれが変わっていったのです。

4.明治維新に繋がる「鎖国」までの流れ

明治維新が起こった背景には、

その前に日本が「鎖国」していたことがあります。

では、「鎖国」が決定するまでに

世界ではどんなことが起こり、

その影響がどう日本に及んでいたのか?

ここからは、そんな世界と日本の歴史の関連性を考察していきます。

4-1.鎖国に繋がる世界の侵略の歴史

日本が鎖国を決意した背景には、

世界で広がる「侵略」の歴史がありました。

1492年、世界では、

コロンブスが西インド諸島に行きました。

そして、1494年に

トルデシャリス条約が結ばれたのです。

この条約は、スペインとポルトガルの間で交わされた条約で、

「見つけた領土をどう分配するか?」というものです。

とはいえ、見つけた領土にも先住民がいるわけですから、

その人たちをないがしろにした条約だったとも言われています。

 

そして、1521年、

スペインによってアステカ文明が滅亡し、

1532年には、インカ文明が滅亡します。

その後、1571年にスペインのフィリピン占領があり、

ここから拍車をかけて白人が世界を侵攻し始めたのです。

4-2.世界と日本。そして鎖国へ

白人が世界を進行し始めた影響が、

日本にも及ぶようになりました。

実際、1549年にザビエルが来日し、

キリスト教の布教活動を始めています。

その後、1587年に日本ではバテレン追放令が出て、

キリスト教の布教活動に関する禁制文書が発行されます。

ちなみにこのときは「布教」のみが禁止されており、

キリスト教の信仰自体は禁止されていませんでした。

そして、1592年には秀吉による朝鮮出兵が行われました。

 

その後に起こったのが、

1596年の「サン=フェリペ号事件」です。

 

これが日本にとっては衝撃の事件でした。

どういう事件だったのか?

 

この事件では、

高知にスペインの船が座礁します。

そこにいた乗組員との会話から、

重大なことが発覚したのです。

「なぜスペインは広大な土地を持っているのか?」

と質問したところ、

「スペイン国王は宣教師を世界中に派遣し、

布教とともに『征服』を事業としています。」

と話したのです。

この時、1549年にザビエルが来日し、

キリスト教の布教活動を始めた魂胆が発覚したのです。

 

その結果、1612年に禁教令が出ました。

禁教令という名前ですが、決して弾圧ではなく、

白人による制服を止めるための政策だったのです。

そして、そのままの流れで

1633年に日本は鎖国することになりました。

 

つまり、世界の流れから見て、

日本が「鎖国」を選択したのは自然な流れだったのです。

では、この鎖国をした結果、

日本は世界から遅れを取るようになってしまったのか?というと、

実はそうではなかったのだと言われています。

むしろ、江戸時代の日本は

世界有数の近代国家へと発達していきました。

5.明治維新前(江戸時代)の人々の暮らし

では、江戸時代の日本は

世界から見てどういう状況だったのでしょうか?

まず、当時の江戸時代、

江戸の人口は100万人ほどだったそうです。

実は、この当時に

100万人もの人口が江戸に住んでいたのは

とてつもなく凄いことなのです。

 

例えば、イギリスの首都である

ロンドンでも当時の人口は86万人。

フランスの首都であるパリですら54万人でした。

つまり、この当時、

人口が100万人を超える首都というのは

ほとんどありませんでした。

 

さらに、江戸時代の頃の日本は

現代よりもさらに治安も安定していました。

なんと、江戸時代の270年間で起こった犯罪件数は

今の日本の1年間で起こる犯罪回数分しか

起こっていないのです。

また、小伝馬町という牢屋があったのですが、

暴れん坊将軍で有名な徳川吉宗が将軍をしていた20年の間に、

その牢屋に入った罪人はなんと0人だったと言われています。

それくらい江戸時代は安心安全な時代でした。

 

さらに江戸時代は諸外国と比べても

教育がものすごく盛んで行き届いていました。

私塾の数も松下村塾、鳴滝塾、適塾あわせて1500ほど。

寺子屋に至っては15,000軒もあり、

当時の塾生は誰もが勉強に励んでいたと言います。

識字率も当時のロンドンが10%に対して、

江戸時代の日本は70%以上でした。

世界から見ても、

非常に高い識字率を誇っていたのです。

 

それほど江戸時代の日本が他の諸外国と比べても

はるか先の文明を歩んでいたのです。

なので、当時江戸に来ることができた

数少ない外国人はみんな日本のことを大絶賛していました。

上下水道といったライフラインも整備されていて綺麗。

お供を連れなくとも、

女性が外を歩くことができるという治安の良さは

とても自分たちの国では実現できないと

誰もが口をそろえて言っていたといいます。

 

また、江戸時代の日本は治安が良いだけでなく、

芸術面においても世界を驚かすほどのものを持っていました。

代表的なものが、ゴッホの芸術人生に

大きな影響を与えた浮世絵です。

浮世絵

当時、ヨーロッパでは

日本の浮世絵がものすごい流行っていました。

では、なぜヨーロッパへと日本の浮世絵が広がっていたのか?

 

実は、日本で陶器の輸出をするときに、

失敗作の浮世絵を包み紙にしていたのです。

日本人からすると、失敗作の浮世絵でしたから、

新聞紙のような感覚で包んでいたのです。

ですが、西洋の人々はそれを受け取って驚きました。

「なんでこんなに素晴らしい美術品をこんなに粗末に扱っているだ!?」と。

ですが、それすらも、

「いやそれ失敗作なので…」と言ってしまえるほど、

江戸時代の日本の技術力、美術的な要素は高かったのです。

このように鎖国をしている間の江戸時代は、

世界に類を見ないほど発展した国だったのです。

6.開国〜明治維新が起こるまで

さて、いよいよここからは

江戸時代から明治維新までの

歴史の流れを解説していきます。

鎖国を決めた日本が開国を決断し、

そこから西洋の文化が日本に流入してきます。

その中で、様々な人物の思惑も動くようになるのですが、

その流れも一つずつ解説していきましょう。

6-1.開国の影響で起こった大問題

1853年、ペリーが黒船に乗って来航しました。

その狙いは日本にあった「金」です。

当時、日本は金の産出量が世界の総産出量の

3分の1を占めると言われたほど多かったのです。

そして、そこに目をつけたアメリカは

日本に開国を迫りました。

 

その後1858年、

アメリカの外交官タウンゼント・ハリスが、

江戸幕府の大老、井伊直弼との間で

「日米修好通商条約」を結びました。

しかし、これは日本にとってはとても不利な

ひどい”不平等条約”だったのです。

 

この条約の中には、

  • 日本はアメリカ人に治外法権を認めること(日本の法律でアメリカ人を裁けない)
  • アメリカの輸出品に関税をかける権利を持たないこと(関税自主権の放棄)

といった内容が盛り込まれていました。

では、なぜこれほど不平等な条約が結ばれてしまったのか?

 

実は、この条約に関しては、

幕府内でも反対派の意見が強かったのです。

ですが、それにもかかわらず、

アメリカに強引に押し切られるような形で、

井伊直弼が条約を締結してしまったのです。

そして、この条約締結をきっかけに、

日本で産出された金は、どんどんアメリカに流れ込むことになりました。

実は当時、金が豊富に取れる日本において、

「金」の相場は世界相場に比べて圧倒的に安かったのです。

 

例えば、当時世界の相場は、

メキシコ銀貨四枚で、金貨一枚と交換。

ところが、日本では、

メキシコ銀貨一枚と、一分銀四枚が等価で、

一分銀四枚と慶長小判一枚が等価でした。

つまり、

メキシコ銀貨一枚を持って日本に行くと、

慶長小判(金貨)一枚と交換してもらえたのです。

 

さらに、それだけではありません。

その慶長小判一枚を香港に持ち込むと、

メキシコ銀貨四枚と交換してくれる状況にあったのです。

 

メキシコ銀貨が一枚あれば、

日本に行くだけで、それを慶長小判一枚と交換することができ、

さらに香港では、その慶長小判一枚とメキシコ銀貨四枚が交換できる・・・。

つまり、

香港と日本を一往復するだけで、

手持ちの金が、なんと四倍に増えたのです。

これを知ったアメリカのハリスは、

条約内の細則で、金と銀の両替相場を固定しました。

その結果ハリスは、香港と日本を往復するだけで、

巨万の富を手にすることになります。

 

どのくらい儲けたかというと、

なんと京(ケイ)の位まで儲かったのだと言われています。

当時、小判入手を目的とする

メキシコ銀貨の一分銀への両替要求は、

一日になんと1万6千枚にも上りました。

その結果、日本国内に流通すべき一分銀は巷から消え、

小判も国外に流出し、日本から消えてなくなってしまいます。

気付けば、

「もう両替する小判がない」

状況にまで陥ってしまったのです。


それを日本が訴えるとハリスは、

「金が足らなくて小判ができないなら、

小判の中の金の含有量を減らしてでも小判を発行せよ」

と、ものすごい剣幕で幕府に迫ったのです。

この圧力に屈した幕府は、

見た目が同じで、含有金量が慶長小判の約八分の一しかない

「万延小判」を鋳造するようになります。

こうして、日本の金の大部分は

恐ろしいまでのスピードでアメリカへと

吸収されていきました。

 

それまで日本人は、

伊勢参りなど、神社参拝に行くために

誰もがお金を貯金していました。

そして、その道中で何かあったらいけないからと、

みんな小判を持っていたのです。

 

どんなに普段の生活が貧乏な人でも

みんな小判を持っていたのです。

それほど日本は豊かな国だったのです。

でもそんな国は日本以外にはありませんでした。

 

ですが、金の大半が海外へと流れてしまい、今の日本で言うならば、

日本国内から一万円札が消えるような状況に陥ってしまったのです。

また、そうやって日本から流出したその大量の金は、

当時アメリカ内部で起こっていた南北戦争の軍事資金に使われました。

実は、タウンゼント・ハリスは

南北戦争で勝利したリンカーン大統領の部下だったのです。

そのため、この金の大部分は北軍の軍事資金として使われ、

それまで劣勢だった北軍を一気に後押しし、

勝利を収めるまでになったのです。

実は、南北戦争のリンカーンの勝利の裏には、

不平等条約によって日本から金が流出したことがあったのです。

6-2.日米修好通商条約の裏側

さらに、この1858年の日米修好通商条約の締結時、

井伊直弼はあろうことか、天皇の許可も得ずに

勝手に条約を結んでしまいました。

本来であれば他国と条約を結ぶという時には、

必ず事前に天皇にお伺いを立てて

了承を得なければいけません。

それなのに、井伊直弼は天皇を立てずに

勝手に条約を結んでしまったのです。

 

このことに当時の孝明天皇は怒り、

国内藩士の中でも最も忠臣であった御三家の水戸家に対して、

江戸幕府を通さず、密勅を出しました。(戊午の密勅)

孝明天皇

当時の水戸藩は、あの水戸黄門で有名な

水戸光圀公の時代から水戸学という教えを

子供の頃から教育していました。

水戸学というのは、

儒教を中心に国学・史学・神道などをまとめた教え。

みんながその土地の民を愛して、

天を敬い人を愛するという精神をずっと教育していたのです。

そのため、水戸藩の人達の天皇に対する

姿勢や態度は特に素晴らしいものでした。

(ちなみにこの水戸学は、のちに西郷隆盛や

吉田松陰にも影響があったほどの学問でもあります。)

 

そんな水戸藩に対して孝明天皇は、

なぜ条約を結んだのか、呵責と詳細説明の要求を

水戸藩から幕府の方へ言ってもらうように密勅を出しました。

ただ、この命も本来であれば天皇から直接幕府に言うべきもの。

ですが、幕府を飛ばして、

幕府の臣下である水戸藩に対して言ってしまったのです。

そして、孝明天皇からの密勅を受けた水戸藩の藩士たちは、

幕府を問い詰めるために江戸城に向かいました。

 

本来は将軍に対して、

予定のない緊急面会をするというのはNG行動です。

しかし、そのNG行動をしてでも

天皇からの言葉を伝えたかったため、

水戸藩士たちは江戸へ来たのです。

井伊直弼の結んだ条約によって、

日本が悲惨な状況にあったわけですから、

それは自然なことでしょう。

そして、将軍の前で散々、

井伊直弼のことをダメ出ししました。

 

ですが、将軍の臣下であるはずの水戸藩へ

朝廷から直接勅書が渡されたということは、

「幕府がないがしろにされ、威信を失墜させられた」

ということでもあります。

このことに幕府は怒り、勅諚の内容を秘匿したのです。

 

さらに井伊直弼もその仕返しに

「『不時登城をして御政道を乱した罪は重い』

との台慮(将軍の考え)による」

として、徳川御三家の前水戸藩藩主・徳川斉昭と

その息子の徳川慶篤を隠居・謹慎に処分を下しました。

水戸藩主というのは、徳川御三家なので、

幕府につかえる中で最も位が高く、

そこには将軍になれるような人材もいます。

その御三家に対して、

いくら大老という役職を与えられていたとはいえ、

彦根藩主であった井伊直弼が謹慎処分を言いわたすということは、

極めて異例の事態でした。

 

すると今度はこの謹慎処分に

水戸藩の若者たちが憤慨します。

これに対し、井伊直弼は水戸藩を含む、

自分の政策に反対する人間を弾圧し始めました。

中には何人か処刑した人もいるほど。

これが、あの吉田松陰らも

処刑されたことで有名な「安政の大獄」です。

 

ですが、水戸藩側としても、

さすがにそこまでされては黙っていられません。

その結果、水戸藩を脱藩した者たちによって、

1860年に井伊直弼は暗殺されることになります。

それが、「桜田門外の変」という事件なのです。

桜田門外の変

6-3.天狗党の乱と尊皇攘夷思想

水戸藩は兼ねてから天皇の忠臣であり、

尊皇攘夷思想(天皇を敬い、外国人を排除する思想)が

強かった藩士たちでした。

ですが、この桜田門外の変の後、

その水戸藩の中でも特に尊皇攘夷思想の強かった

藩士たちが集まり、「天狗党」を結成します。

そして、1864年「天狗党の乱」を起こしました。

天狗党の乱

これは本来、尊皇攘夷運動の一貫として、

幕府に対して横浜港の鎖港を迫るために挙兵されたはずだったのですが、

軍資金の不足から、あろうことか道中の村々を襲ってしまったのです。

一般市民から恫喝・略奪・放火・殺戮という悪行を働いた天狗党は

これによって、暴徒、逆賊扱いされ、幕府に捕まり、

水戸藩士やその親族など多くの人が処刑されました。

幕末に戦争以外で一番人が死んだ事件は、

おそらくこの天狗党の乱の鎮圧だろうと言われています。

 

ちなみに、この事件のことは

学校の教科書には全く載せられていません。

というのも、この事件を載せてしまうと、

「倒幕軍とは何か?」という全体像が、

分かりにくくなってしまうのです。

 

この頃の天狗党やその他の攘夷派の人たちは、

そもそも、勝手に不平等条約を結んでしまった井伊直弼や、

天皇をないがしろにした幕府側の行いを正すために動いていました。

そのため、倒幕への意志はなかったと考えられているのです。

 

このように一見すると、幕府側と倒幕側の間で

大きな対立構造が生まれていったようにも見えますが、

実はそうではないのです。

つまり、「尊王攘夷」と「倒幕」は

動きとしては似ていたとしても、

少し意味が違ってくるのです。

 

そもそも大前提として、

日本人は幕府派も倒幕派も関係なく

全員が基本的には「尊皇攘夷思想」を持っていました。

尊皇攘夷思想とは、

「天皇万歳!!」と思わなければいけなかったり、

外国人をむやみやたらと弾圧したかった訳ではありません。

 

根本的には

「侵略支配しようとする外国人や

平和を乱す外国人的な思想を排して、


天皇を敬い、日本国の平和を守りたい」

という思想のことを尊皇攘夷と言うのです。

 

言葉の意味としては、

“尊皇”と”攘夷”に分けて考えると

分かりやすいでしょう。

尊皇とは、 天皇は我が国最高の権威だから

最も敬うべきだという考えのこと。

攘夷とは、民衆を奴隷化したり、

搾取するような外国人を追い払えという考え方です。

これらをあわせて、

「天皇のもとに民の安心安全を守ってそれを阻害する人間を打ち払おう」

という思想が尊王攘夷なのです。

 

ちなみに、「尊王攘夷」という思想を達成するために

二つの考え方(動き)があったと言います。

一つは「佐幕派」といって、

幕府を支えながら尊皇攘夷をやりましょうという人々の動き。

もちろん、天皇も大事なのですが、

「幕府を支えて、あくまでも将軍様と一緒に

幕府のやり方で外国人を追い払っていきましょう」

というのが佐幕派です。

 

これに対して、

先ほど紹介したような井伊直弼をはじめとした

幕府側の暴走が起きてしまったのです。

そこで、その状況を見るに見兼ねて

生まれてきたのが「倒幕派」です。

 

勝手に条約を結ぶなど、

天皇をないがしろにした幕府の行動を受けて、

「幕府なんかいない方がいいじゃないか!」

という立場に至った人たちです。

 

そして、この二つを派閥の分裂に対して、

「それでもみんなで一緒にやりましょう!」

という立場をとった「公武合体派」という一派も生まれてきました。

実はこの公武合体派が、

ある意味明治維新の流れの中で

最もややこしい存在ともいえます。

 

とはいえ、これら三つの派閥とも、

元々はみんな「日本の平和を守りたい」という

気持ちは一致していました。

ですが、それにも関わらず、

その中でそれぞれの立場や進め方の違いから分裂して、

対立するようになっていったのです。

7.天皇と幕府と水戸藩の関係性

ここで、

  • 天皇
  • 江戸幕府
  • 水戸藩

の関係性を改めて整理して

書いていこうと思います。

最初の方でも解説しましたが、

日本はそもそも「天皇」の元に「民」がいて、

天皇に代わって民を統治する立場の「臣」がいる形で

国を治めてきました。

つまり、下図のような構図になっているのです。

徳川幕府というのは、

「民」を統治するための「臣」の立場です。

 

また、徳川幕府の中でも

家柄によって「〇〇徳川家」と呼ばれており、

その中でも階層がありました。

水戸藩というのはその家柄の中の一つ「水戸徳川家」によって

統治されている領地(現在の茨城県の北部・中部あたり)、

およびその組織のことをいいます。

幕府のトップである将軍(征夷大将軍)に

なることができる家柄は3つしかなく、

水戸藩はそのうちの一つなので、位の高い家柄なのです。

 

水戸藩以外の2つは、尾張藩と紀州藩です。

例えば、吉宗とかは紀州藩の出身です。

もし将軍に子供ができなかったりすると、

この徳川御三家の中から引っ張ってくるわけです。

 

そして、彦根藩出身の井伊直弼は、

家柄的に水戸藩よりも下の立場です。

    江戸幕府(臣)

    /     |     \

  水戸    尾張    紀州

  /   |   \     /  |   \     /  |  \

〇〇家 

では、なぜ徳川御三家の水戸藩が倒幕思想になったのか?

 

水戸藩は水戸光圀(みつくに)が儒学を元にして書いた、

大日本史という「日本を良くしていくための学問」を学んでいました。

つまり、天皇側にしてみれば、

「天皇が大事」という歴史教育がしっかりなされていて

信頼できる藩だったのです。

そのため、天皇から直に詔(みことのり)を受けます。

 

それだけ天皇を敬う精神が行き届いた藩だったわけですから、

「井伊直弼が大老を務めている江戸幕府は

天皇をないがしろにしているからだめだ!」

となって、討幕運動につながっていったのです。

8.明治維新−幕末から大政奉還の成立−

そして、いよいよ幕末から

明治維新の流れまでを解説していきます。

8-1.幕末から王政復古まで

江戸時代末期、外国人を追い払おうという流れがありました。

そして、その時に起こったのが「生麦事件」だったのです。

生麦事件

生麦事件とは、

島津久光の行列に乱入してしまった騎馬のイギリス人たちを、

供回りの藩士たちが殺傷した事件の事を言います。

この事件を筆頭に、ただ歩いていただけの外人を

切り捨ててしまうという事件が起こるようになったのです。

 

ちょうどこの辺りの頃に、日本にあるほとんどの金が

アメリカに持って行かれてしまっていました。

その結果、どんどん治安もみだれていき、

みんな不安になって行くのは必然ですよね。

国民は混乱し、とにかく幕府に対する

不満だらけという状態になってしまいました。

 

そこで、なんとか抑えようと思い、

1867年の「天狗党の乱」の少し前になるのですが、

大政奉還が行われます。

大政奉還

大政奉還とは、

「政権を全部明治天皇に返上します」というもので、

幕府の持っていた政権を天皇にお返しすることになったのです。

とはいえ、

  • 天皇

の関係性ですから、幕府の権力も、

もともと天皇から預かっていたものです。

そして、それをお返ししたのです。

 

ただ、これでは「臣」がなくなり、

天皇が権力になってしまうので、

古来から続く日本の統治体制ではなくなってしまいました。

そのため、このあたりから

政治機能がおかしくなっていったのです。

 

そして、「大政奉還」で権力を返上をしたところで、

急に幕府がその役職を辞めるわけにもいきません。

例えば、市役所や区役所が

天皇に明日から権限をお返ししますと言っても、

天皇が業務を代わりにするわけにもいきませんよね。

急に役所の機能そのものは止められないのです。

なので、幕府は結局そのままあり続け、

十五代将軍の徳川慶喜も退いてはいませんでした。

徳川慶喜

しかし、大政奉還をしたはずなのに

それが存続し続けるということに対して、

国民から「それはおかしいだろ!」という

不満の声が出てきます。

そして、

「返したのなら解散しろ!」という声が出てきたため、

結局、2ヶ月後に「王政復古」が行われたのです。

王政復古

これで無事権力の引き継ぎが終わったのか…というと、

決してそうではありませんでした。

それどころか、これも更なる

トラブルを生むことになるのです。

8-2.「王政復古」の問題点

というのも、まず一つ目の理由としては、

江戸幕府の廃絶をするにも、

徳川慶喜本人がいない場所で

勝手に政策を決めていってしまったのです。

 

幕府に不満を持っていた岩倉具視を筆頭に、

徳川慶喜がいない中、欠席裁判のような形でどんどん政策を決め、

勝手に進めていったのです。

本人がいない中、

  • まず将軍をやめろ
  • 幕府が所有している土地を全部天皇に返せ

という主張をします。

これはいわば、徳川慶喜は無職になるということです。

仕事がなくなるので、当たり前ですが収入がなくなります。

そして、慶喜だけならまだよかったのですが、

幕府に仕えている旗本全員に適用しました。

つまり、旗本全員をいきなりクビにしたのです。

 

ある日突然、収入の目処が立たない状態に

追いやられてしまったのです。

そして、この動きを主だって行ったのが

岩倉具視(いわくらともみ)です。

岩倉具視

岩倉具視の行ったことはあまりに理不尽だったため、

この一連の動きを「おかしい!」と思う人が出てくるようになります。

ですが、その疑問を無視して、

明治新政府が立ち上がるのです。

8-3.東京奠都(てんと)

そしてこの時、

東京に奠都(てんと)することになりました。

つまり、

「江戸を『東京』という新たな都にしよう」

となったのです。

 

これには様々な理由があり、

一つは、江戸の「江」には

「汚れる」という意味があったことがあります。

なぜなら、徳川家康が、

「政治は、汚いことを引き受けることもあるだろう。

だから、私たちの治める場所もそんな『汚いこと』も引き受ける場所にしよう。」

という意味で、いわゆる「汚れ」という意味も含む、

「江戸」という名前をつけたのです。

 

ですが、そんな場所に、

天皇を引っ越しさせるのは良くないですから、

名前を変えて「東の都」で「東京」としたのです。

ちなみに、奠都(てんと)は、遷都ではなく、

「京都と東京の両方に同時に都をおきましょう」

ということです。

なので、「今の日本の首都はどこですか?」と聞かれたら、

「東京と京都」なのです。今でも。

「遷都」であれば、「都を移す」ことになりますが、

「奠都(てんと)」は都をもう一つ増やしましょうということになるのです。

 

とはいえ、

「この奠都も急に決まったのか?」

というと、そうではありません。

実は、「奠都」に関しては

明治維新の前から言われていたことでした。

 

日本は地震や火山噴火など災害が多いため、

「三都制」という、大阪・京都・東京という三つの都での

体制ににした方が良いのではないか、

という話はずっとあがっていたのです。

つまり、政治機能の分散が必要だと元々から言われていたのです。

そのため、「奠都」に関しては

急遽決まったわけではありませんでした。

8-4.版籍奉還と廃藩置県

さらにその後、

「版籍奉還」というものを実施されます。

ここからさらに、

武士の立場が追い込まれていったのです。

 

この「版籍奉還」とは、

諸大名に対して「領地と領民の統治権を天皇に返上しろ」

という命令が出たことを意味します。

幕府も天皇に権力をお返ししたわけですから、

「権力はもともと天皇からの預かり物だから、

別に返せと言われても問題ないだろう」

という主張が「版籍奉還」だったのです。

 

もちろん、これもまた諸大名たちが

「無職」に追い込まれることを意味したのですが、

「版籍奉還で権力をお返しすれば、その代わりに、

藩を県にして、県の職員として給料を出してあげる。」

と言われたため、武士は権力をお返しすることにしたのです。

 

ですが、その2年後のことでした。

次に行われたのが「廃藩置県」だったのです。

この廃藩置県で行われたのは、

「中央政府から送った人間を県の役人にするから、

元々いた役人(元武士)は全員クビ!!」

ということだったのです。

その結果、武士たちは

権力も取り上げられ、役職も失うという

散々な目に合うことになったのです。

失業者だらけになり、日本が一つになるため、

戦争もしながら頑張ってきたのに、

結局それも全部取り上げられてしまったのです。

その結果、当然のことですが、

不満分子がどんどん増えていったのです。。

そして、この不満分子を増やすことこそ、

「日本で戦争起こさせたい」と

考えていた人たちの狙いなのです。

 

つまり、ここまでの「明治維新」の一連の流れを

裏で操っていた人々がいたのです。

それについて語られているのが

「陰謀論」と呼ばれているものであり、

そこにはあの有名な坂本龍馬も大きく関わっています。

では、一体明治維新の裏側でどんなことが起こっていたのか?

ここからはその「裏側」の思惑について

解説していきましょう。

9.明治維新成立の裏側

では、ここからは

明治維新が成立するまでに巻き起こっていた

裏側の様々な思惑について解説していきます。

いわゆる「陰謀論」と呼ばれるものです。

 

明治維新の”維新”というのは、

本来「惟新」と書き、「コレアラタ」と読みます。

つまり、

「元からある日本の一つの形に戻そう」というのが

「明治維新」の持つ本当の意味だったのです。

 

もともと日本は、

天皇・朝廷の元に一つにまとまっていました。

ですが、武士というものを作り、

幕府ができ、藩ができた。

こうして「分裂」が進んでいたため、

「そもそもの一つの形に戻そう!」というのが

元々の明治維新の考え方だったのです。

 

そして、確かに一つに戻っていく流れにはなったのですが、

その中で様々な思惑が重なり、

どんどん不満分子が生まれていきました。

では、明治維新の背後で動いていた

「思惑」とはどんなものだったのか。

それをこれから解説していきましょう。

9-1.明治維新の構図と思惑

明治維新は、分かりやすくいうと、

「薩摩&長州 VS 幕府」という構図になっています。

「坂本龍馬によって手を組んだ薩摩と長州が幕府を倒す」

という図式が一般的に知られている明治維新です。

ですが、この背景の裏には、国内だけではなく、

海外と日本との関係も大きく絡み合っていたのです。

 

では、具体的に当時の日本と外国はどう関わっていたのか?

実は、当時、幕府はフランスから武器を買い、

薩長はイギリスから武器を買っていたのです。

 

外国からたくさんの武器をもらい、

それぞれ武力を蓄えた薩長と幕府は

「鳥羽伏見の戦い(1868年1月)」で激突します。

これがいわゆる、「戊辰戦争」の始まりです。

戊辰戦争

当時の日本はすでに

大政奉還(1867年11月)が終わっていました。

ですが、旧幕府勢力に反感を抱いていた倒幕派が

旧幕府を挑発し、起こった内戦がこの戊辰戦争だったのです。

 

そのため、戊辰戦争は本来、

起こす必要のなかった争いだとも言われています。

では、なぜ「必要のない戦争」が起こってしまったのか?

それにはとある「思惑」が潜んでいたのです。

この思惑を紐解くのが、

戦争に使われた「武器」でした。

なんと戊辰戦争で使われた武器は、

元を辿ればアメリカの「南北戦争」と関連があったのです。

9-2.明治維新と南北戦争の関係性

日本が明治維新で激動を迎えている時、

海の向こうの大国アメリカでは、大騒動の真っ最中でした。

それが、リンカーン大統領の時代で有名な南北戦争です。

南北戦争は、1861年から1865年にかけて起こりました。

ハリスの所属するアメリカ北部(合衆国)が、

日本から大量に持ち出した金を使い、

その金を武器や兵力に替えて勝利を収めたのです。

 

その後、アメリカ北部の資産家は、

南北戦争で大量に余った武器を見てこう考えました。

「この余った武器って、売れないだろうか・・・?」

いくら中古品だろうと、状態も良く、当時の最新式。

戦争が勃発中で武器を求めている国を相手にすれば、

まだまだ高く売ることが可能だったのです。

 

「武器が必要な国に対してなら高く売れるはずだ!」

そう判断したアメリカの資産家は、

明治維新で動乱していた日本に目をつけます。

  

ただ、当時の日本は大政奉還も終わっており、

争いもなく、そもそも武器を持つ必要ありませんでした。

ですが、武器を合理的に売り捌きたいアメリカの資産家たちは、

日本に内戦をけしかけるような方法で武器を売り捌いたのです。

 

さらに、アメリカが日本へ直接売るとなると、

幕府軍か朝廷軍のどちらかにしか武器を売ることはできません。

そこでアメリカの資産家は、

自国で余った武器を全て売り捌くために、

  • フランスに対して「この武器を幕府に売ると良いよ。」
  • イギリスに対して「この武器を薩長に売ると良いよ。」

と根回しをしたのです。

その結果、2つの国に武器を売り捌くことで、

アメリカの資産家は巨額の富を得ることになりました。

ですが、更にアメリカの資産家は、

武器を売って目先のお金を儲けること以上の

目的があったのです。

 

その目的とは何か?

なんと、日本が国内の戦争で疲弊した隙になだれ込んで、

日本を植民地化しようとしていたのです。

そして、この「隙」を作るために、

仲の悪かった長州と薩摩の中を取り持つよう坂本龍馬を利用し、

薩長同盟を成立させ、明治維新を起こさせたのだとも言われているのです。

9-3.坂本龍馬を操った黒幕の存在

犬猿の仲だった薩摩と長州を結びつけ、

倒幕へと導いた坂本龍馬の功績はあまりにも有名です。

坂本龍馬

ですが、その坂本龍馬の功績は、

トーマス・グラバーというスコットランド出身の

武器商人の存在が大きかったと言われています。

トーマスグラバー

長崎県にある「グラバー園」で

有名なトーマス・グラバーは、

もともとロスチャイルド系列の人間です。

当時、龍馬はグラバーのところへ頻繁に訪れており、

資金援助を受けていたと言われています。

脱藩下級藩士出身の龍馬が、

なぜ日本各地の要人達と対等に渡り合い、

薩長同盟という偉業を成し遂げることができたのか?

その背景には、グラバーの膨大な資金力の影響があったのです。

(詳しくは「坂本龍馬」の記事で解説しています。)


また、グラバーは、伊東博文をはじめとする

長州藩の志士5人「長州五傑(長州ファイブ)」を、

ヨーロッパ留学に送り、これの資金も援助しました。

※長州五傑(長州ファイブ):伊東博文、井上肇、遠藤謹助、山尾庸三、井上勝


長州の優秀で若い5人をヨーロッパに連れていき、

近代化のことや世界のことを勉強してもらうことで、

帰国後は日本新政府のキーマンとして

活動してもらうつもりだったのです。

そしてこの時期、グラバーは、

薩摩藩の五代友厚もヨーロッパ留学へ行かせました。

イギリス現地で、長州五傑と

交流を持たせるように場を作っていたのです。

 

つまり、この時点ですでに

薩長の関係は築かれ始めていたわけです。

グラバーは、ロスチャイルドの資金援助によって

日本の若い志士を教育し、

彼らを指導者として日本に送り返し、

倒幕して生まれた明治新政府を支配しようとしていました。

同時に、薩長両方に武器を売ることによって

倒幕のクーデターを起こさせ、

自分たちは利益を得ていたのです。

これが、明治維新の裏側を

陰謀論的に見たときの構図です。

 

日本は本来、戦争する必要もなかったはずなのに、

資産者の利益のために仕組まれたかのように戦いを起こされてしまった…。

こう考えると、坂本龍馬はただ裏で

資産家達に操られただけの存在だったのでは?

という見方をすることができるのです。


さらに言えば、

有職故実(ゆうそくこじつ)という考え方に則ると、

坂本龍馬は大した家柄ではありません。

では、なぜこんなにも

様々な政府の要人と会い、明治維新の立役者とまで

言われるようになったのか。

実は、坂本龍馬もある人に出会っているのです。

それが、ジョン万次郎です。

ジョン万次郎

9-4.坂本龍馬を取り巻く“思惑”

ジョン万次郎も坂本龍馬も、

二人とも土佐藩出身の人物です。

ジョン万次郎は14歳の時、

漁に出た際に船が難破し、無人島に流れついてしまって、

143日間のサバイバルを経験しています。

そこでアメリカの捕鯨船に助けてもらい、

アメリカに行くことになるのです。

そして、アメリカでしばらく過ごし、

アメリカの事情やいろんな情報を知った上で、

土佐に帰ってくるのです。

 

実は、井伊直弼が勝手に結んでしまった

不平等条約(日米修好通商条約)も、

ジョン万次郎が通訳として入っていたのです。

そして、日本にとって不利な

不平等条約を結んだ場にいたわけですから、

ジョン万次郎は何かしらアメリカ資本家の意図を汲んだ

存在だったのではないかと考えられています。

さらに、そのジョン万次郎と、

龍馬が繋がっていました。

 

そのため、ジョン万次郎がきっかけを作って、

坂本龍馬とグラバーは出会ったのではないかと

考えられているのです。

こうして、坂本龍馬は決して一人で明治維新を成し遂げたわけではなく、

様々な思惑が重なり合う大きな歯車の中の中心軸としての

存在だったのではないかというのが「陰謀論」の考え方なのです。

10.最後に −「明治維新」とは何だったのか?−

では、これまで解説した内容を踏まえて、

「明治維新とは何だったのか?」ということです。

確かに、明治維新が起こり、

その背後にはアメリカの資産家の思惑が

隠れていたのでしょう。

ですが、日本は植民地にはされませんでした。

そして、実はそれは

アメリカの資産家にとっても想定外のことだったのです。

 

アメリカの資産家たちは、その国の都合に関係なく、

どこかの国から搾り取れるだけ搾り取ろうとします。

実際に、まず日本からは「金」を搾り取りました。

金を搾り取り、自分の国の戦争に使って、

自分に有利な政権を作ったのです。

 

さらに、そこで余った武器を

イギリスとフランスに売りつけて、

またお金を儲けるのです。

そして、お金を儲けるだけでなく、

その武器をきっかけに日本国内に戦争を起こし、

そのスキに国を乗っ取る植民地計画まで考えていました。

 

ですが、予想以上に日本の明治維新が

あっさり終わってしまったのです。

また、自分たち資産家にとって

都合のいい国を作ろうと目論んでいましたが、

明治政府という絶対主義的な政府もできてしまい、

むしろ扱いにくい国となってしまったのです。

これに関しては、もしかしたら

計算外の出来事だったのかもしれません。

ですが、

「まあ搾り取れる分は搾り取ってるからいいや」

とも感じていたのでしょう。

 

実際、明治維新の一連の出来事を利用して、

日本はいいようにやられてしまいました。

もちろん、「ロスチャイルド(アメリカの資産家)」という言葉が入ってくると

「陰謀論で、出来事の繋がり自体は憶測の話じゃないの?」

と考える方も結構いらっしゃいます。

ですが、これらの起こった事自体は全て事実なのです。

 

長州ファイブも、五代友厚も西洋へ行きましたし、

坂本龍馬はジョン万次郎と会い、

そのジョン万次郎はアメリカに住んでいました。

また、幕府と薩長には、

それぞれフランス・イギリスが武器を売っており、

その武器は南北戦争の中古品だというのも間違いありません。

 

そのため、これらの出来事の全体像を見た時に、

「明治維新の一連の事件は、この資産家たちが

自分たちの利益のために起こした事件なんじゃないか?」

と考えるのは、自然なことだと言えるでしょう。

 

では、これらを全て包括した上で、

「明治維新とは何だったのか?」というと、

「日本人として最も大事にしていたものがなくなったタイミング」

だったのではないかと考えています。

例えば、最初のシラスとウシハクの話でもお伝えしたように、

「天皇は権威であり、権力ではない」

というものが、幕府がなくなることで、

「天皇=権力」に変わったという意味でもそうでしょう。

 

明治維新は、現在の日本では、

坂本龍馬をはじめ、人気の高い歴史上の人物も数多く登場するため、

「当時の日本にとって良い事だった!」

と考えられることが多いのですが、

見方を少し変えると、全く違った部分が浮き彫りになっていきます。

 

そして、明治維新以外にも、

一般的に語られている「日本の歴史」には、その裏で動いていた思惑があり、

一見、偉大な活躍をされたように思える人物も、

味方を変えれば全く違った見え方が出来るのが「歴史」なのです。

 

そこで、今回は実際に起こってきた歴史的事件を整理し、

考察していくことで、火鳥風月的解釈をお伝えしました。

歴史を観察するときの、

一つ新しいの視点となれば幸いです。

それでは、最後まで読んでいただき、

ありがとうございました。

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こがみのり

幼いころから人生に疑問を持ち、「空」とは何か?「無明」とはなにか?といった幾多の疑問を僧侶にぶつけるも、明快な答えを得られず。18の春に比叡山に出家を志願するも、叶わず。疑問を抱えつつ、大学在学中にパワーストーンの道に希望を託す。以来、猛勉強を重ね、パワーストーンについての該博な知識を手に入れる。大学卒業後、某パワーストーン店に就職。5年後、店長を任される。羽賀ヒカルを通じ、北極老人と出会う。以来、北極老人に師事し、精神世界の修養を重ね、パワーストーンの神髄を得る。現在は、北極老人の元でパワーストーン、人生における神髄を深めつつ、世界でただ一つ「目覚めた石」を扱う。現在、「茶肆ゆにわ」店長。

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