古墳時代とは?古墳時代の「空白の100年」のヒミツを解明

大仙陵古墳

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こんにちは、火鳥風月のこがみのりです。

今回の記事では、

「古墳時代」をテーマに話を進めていこうと思います。

 

古墳時代といえば、

その時代の名の通り「古墳」が最も有名でしょう。

 

そして、「古墳=豪族のお墓」

という イメージを持たれているかもしれません。

 

では、その他には何が思い当たるでしょうか?

 

実は、学校の教科書でも、

古墳時代についてそこまで濃い内容を

取り上げられることはありません。

ですが、実は、

教科書には書かれていないところにこそ、

この「古墳時代」の真実が隠されているのです。  

ちなみに、記事の中で詳しく解説していますが、

「古墳=豪族のお墓」という認識も、確かに正解なのですが、

その背景には「古墳時代」という時代を象徴した物語が隠されていたのです。

そこで、この記事では、

古墳時代に関する基本的な話はもちろん、その裏に隠された、

教科書には書かれていない濃い内容まで、幅広く扱っていこうと思います。

歴史の総復習として参考にするのはもちろん、

今まで身に付けてきた知識を一気に磨き上げるためにも

この記事を参考にしていただけると思います。

それでは、早速いきましょう。

1.古墳時代の年表を振り返る

古墳時代は、

戦いのない平和な時代だった「縄文時代」と、

渡来人が流れ着き、戦が始まった「弥生時代」という、

2つの時代を経て始まりました。

古墳時代といえば、おそらく一般的には、

「奴隷が土を運んで古墳を作った」

というイメージが強いでしょう。

ですが、実はそれは正しいとは言えないのです。

では、実際の古墳時代とは

どんな時代だったのでしょうか?

 

実は、古墳時代を振り返る際、

大いに役立つのは当時の中国の書物になります。

そもそも、この古墳時代の前、

弥生時代の後期に「日本は大きく乱れた」と言われ、

それが「倭国大乱」という言い方で、中国の書物に残っています。

kofunjidai

上の年表にも書いている通り、

2世紀~3世紀の間に、古墳が作られるようになりました。

つまり、このあたりの時代から古墳時代は始まったのです。

そして、蘇我馬子や、推古天皇、聖徳太子などが出てくる

およそ7世紀までが「古墳時代」と呼ばれているのです。

2.日本に実在した「空白の百年」

266年、「晋書」という中国の晋の国の書物に

「倭の女王壱与(いよ)が西晋に使者を送る」

ということが記されました。

この後の3世紀後半〜4世紀頃に

「ヤマト王権」が誕生します。

そして、この間の100年のことを、

私は「空白の百年」と表現しています。

空白

漫画「ONEPIECE(ワンピース)」でも、

その物語の中の大きな謎として「空白の百年」が登場していますが、

それと同様のことが日本でもあったのです。

では、空白の百年とは一体なぜ生まれたのか。

 

実は、266年に晋の国の書物に出てきて以来、

次に日本のことが書かれたのは391年にまで飛んでしまうのです。

というのも、この古墳時代には、

まだ日本の中に書物を残す文化がなかったため、

中国の書物に出てくるものから

その当時の日本を伺い知るしかなかったのです。

その結果、約百年間全く出てこないという事態が起こってしまいました。

そして、この「空白の百年」を経て、

朝鮮にある「好太王碑(こうたいおうひ)」という石碑に、

391年に倭国が高句麗に出兵してきたということが書かれています。

そこでようやく日本の姿が見えるのです。

では、この百年の間に

何も歴史的変化はなかったのか?といえば、

もちろんそうではありません。

 

まず、この100年の間に「ヤマト王権」が誕生しました。

遺跡

さらに、その後に

倭の五王 (古代中国の歴史書に登場する倭国の五人の王、讃・珍・済・興・武)が

南朝の宋(当時の中国)に朝貢(ちょうこう:朝廷にみつぎものを差し上げること)した

と言われています。

そして、この「空白の百年」が明け、

5世紀頃に漢字、儒教、須恵器、養蚕などが日本に伝わり、

6世紀半ば頃に仏教が伝わって来たのです。

そして、そこから蘇我馬子や推古天皇、聖徳太子が現れました。

この7世紀あたりまでが「古墳時代」と呼ばれています。

ざっくりと古墳時代の大まかな流れをお伝えしましたが、

この時代の中で、最も重要なのが、「空白の百年」になります。

では、いったいこの百年の間に何があったのか。

ここからは、この百年の謎を解き明かすと共に、

そこから見えてくる古墳時代の暮らしや文化についても

話を進めていこうと思います。

3.古墳時代の暮らしと天皇の関係

まず、この「空白の百年」について話を進めていく際、

「100年の間に誰が天皇だったか」が一つ重要なことになります。

この時代で言えば、

天皇は「大王(おおきみ)」という呼ばれ方もしていますが、

この「空白の百年」の間の天皇が、

応神天皇(3世紀の後半ぐらいに在位)と

仁徳天皇(290年~399年に在位)なのです。

「仁徳天皇は100年以上、天皇として在籍したのか?」といえば、

確かに年代としてはおかしいのですが、

一般的にはこのように言われています。

そして、何より重要なのが、応神天皇と仁徳天皇。

それぞれが何をしていたのか、ということなのです。

3-1.応神天皇

応神天皇は、

全国の八幡宮で神様として祀られています。

では、この応神天皇はどんな人物だったのか。

まずはその生い立ちを知るために、

一枚の絵を見て貰おうと思います。

jingukougou

この絵に描かれているのは、応神天皇の赤ちゃんの頃です。

右側で槍を構えているのが

神功皇后という、応神天皇のお母さん。

まだ赤んぼうの応神天皇を抱きかかえる背中が描かれていているのは、

神功皇后の忠臣であった竹内宿禰(たけうちすくね)です。

 

そしてこの絵を見る時に重要なのは、

このシーンに到る前までのストーリーなのです。

古墳時代の前までの日本は

「倭国大乱」という70~80年も続く争乱の時代でした。

倭国大乱の時代、応神天皇の父親である仲哀天皇は

熊襲(くまそ)を平定するために現在の福岡県のあたりに皇居(皇宮)をつくって、

そこから熊襲と戦いに行っていました。

※熊襲(くまそ:九州地方南部に本拠地を構えてヤマト王権に抵抗したとされる人々)

その時、福岡県の香椎(かしい)の香椎浜で仲哀天皇は

「このまま熊襲を攻めていっていいですか」ということを神様に投げ、

神様からのご神託を受けようとしました。

ご神託を受ける儀式は、

基本的に3人にわかれて行いますが、

それぞれ役割が違います。

  • 神功皇后:巫女的に神がかりをする人=神様を自分の身に降ろして、神様の言葉を自分の口から発する人
  • 竹内宿禰:の神様は誰なのかというのをサニワする人
  • 仲哀天皇:琴を弾きながら神様の言葉をずっと聞いてご神託を受ける人

という役割で、儀式を行いました。

そして仲哀天皇は

「熊襲(九州南部)を平定しに行っていいですか?」

と神様に尋ねたのです。

すると、神功皇后に神がかった神様は

「熊襲ではなく、海を渡っていけ。海を渡った西の国に財宝もあるし土地もあるからそこに行け」

と仰ったのです。

(西の方に国あり。金銀をはじめとして、目の輝くようなくさぐさの珍(うず)の宝がその国に多くある)

 

ここで、重要なことが起こります。

なんと、仲哀天皇は神様の言葉であるにも関わらず

「海の向こうに土地なんて見えない。これは本当なのか?」

と疑ってしまったのです。

神様の言葉を疑ったことによって神罰が降り、

なんと仲哀天皇はそのまま亡くなられてしまいます。

そこで急遽、仲哀天皇の嫁である神功皇后が

夫の跡を継いで神様のご神託を受けることになったのです。

神功皇后はご神託通りに、

朝鮮半島に渡って三韓征伐に出ました。

そして実はこの時、神功皇后はすでに応神天皇を身ごもっていたのです。

しかし、戦の最中に生まれたら困るということで、

お腹に重い石のようなものを巻きつけて、

生まれないようにして戦争に行っていたのです。

そして、三韓征伐から日本に帰ってきてすぐに、

応神天皇をお産みになられました。

このように、応神天皇は生い立ちからして、

激動の時代に生まれたかなり特殊な天皇なのです。

※実は父親は竹内宿禰ではないか、

はたまた朝鮮半島の王族の血筋をもらって来たのではないか、

など諸説あります。

そしてこの、三韓征伐の時に何が日本に持って帰ってこられたかというと

金と言われていたり、血筋と言われていたり、

あるいは朝鮮半島の王族をそのまま連れてきたのではないか

という説もあります。

これが応神天皇の生い立ちです。

3-2.仁徳天皇

「空白の100年」に在位されたもう一人の天皇が仁徳天皇です。

大阪府堺市にある仁徳天皇陵(大仙陵古墳)は

教科書にも登場していたので、皆さんご存知ではないでしょうか。

前方後円墳という鍵穴のような形をした古墳です。

大仙陵古墳

仁徳天皇の人柄を表す話としては、

「民の竈(かまど)」という逸話が残っています。

仁徳天皇が難波の高津宮という高台から山の方を見ると

民の家からかまどの煙が登っていないことに気がつきます。

それを見て仁徳天皇は、

これは民が飢えているからかまどに火が入ってなくて、

煙が上がっていないのだなという事に気がつきます。

皇居から見える京ですらそんな状況では、

地方の民はもっと飢え苦しんでるんじゃないかということで

仁徳天皇は3年間、民の租税を免除したのです。

 

3年間租税を免除すると、

皇居である高津宮も屋根が破れてきたり壁が崩れてきたりと

補修が必要な状態になってきたのですが補修をするためのお金がありませんでした。

それでも仁徳天皇は補修を命じることはせず、

3年間は税を免除し続けたのです。

そうして、3年後に街を見ると煙がちらほら登ってるのを見て、

「このように民が豊かだということは、私自身がもうすでに豊かだということだから喜ばしいことだ」

ということ仰られました。

民の竈

しかし、その時に横にいたお妃様が

「お宮の屋根も破れてるし壁も壊れてるのに、これは豊かなのでしょうか?」

ということを尋ねます。

その時に仁徳天皇はこう答えました。

未だかつて民が豊かな国の王が貧乏であったことがない。

だから民が豊かだということは私自身は豊かなんだ」

その時に、仁徳天皇に感謝した民たちが、

「お宮を修理させてください」と自分たちから言ってきたのですが

それも断って、またさらに3年間、租税を免除したのです。

この合計6年間の租税免除によって、

完全に民の生活も潤っていきました。

そして6年後には

また民たちが自ら進んでお宮を修理させてくれと言って、

お宮を直していったという なんと徳の高い天皇か、

という逸話が残されているんです。

 

しかし、仁徳天皇という人は、

ただの徳の高い人という訳ではなく、

実はもっとすごいことをやった人物だったのです。

それが、超大規模な治水・灌漑工事です。

chisuikoji

仁徳天皇の時代は日本の歴史上、

最も治水工事が盛んだったと言われています。

例えばの今の河内平野(かわちへいや)はもともと海だったのですが、

そこを埋めて、平野にしました。

これは考えられないほどの大規模な灌漑工事です。

また、茨田堤(まむたのつつみ)という

淀川沿いに堤防も作りました。

もともとそこはよく川が氾濫して、

どうしても埋められず工事が非常に難しいという場所だったのですが、

しっかりとした工事計画を立てて工事を行いました。

実は古墳時代は、

このようにどんどん平野を作り、川を作って水路を作って、

水路の発展にによってどんどん人々が豊かになっていった時代なのです。

4.古墳とは、ただの豪族の墓だったのか?

実は古墳の意味については様々な説があります。

もちろん一番多いのは「古墳=お墓」という説です。

ですが、仁徳天皇のような徳が高くて

民のことを想う天皇が自分のお墓を作るために、

こんなにも人手もお金もかかるものを民に作らせるだろうか?と考えると、

疑問が残りますよね。

では、古墳は一体なぜ、なんのために作られたのか。

 

あれだけ大規模なたくさんの水路を作るということは、

穴を掘って土が余ります。

その当時は、もちろん車なんてないので

大量の土をそれほど遠くまで運ぶこともできません。

となると、なるべく近くに土を盛っていると、

かなり大きくなります。

でもそうなると土砂の山も綺麗に整えないと、

土砂崩れが起きます。

だから結局、盛り土を綺麗な形に成形していき、

ちょっと美しく樹木とか植えていき、

古墳ができたのではないかという説もあります。

 

そうやって治水工事によって盛り土をして

古墳がどんどん作られたのが古墳時代なのです。

しかし、水路がどんどん行き渡ってくると

船を使って土を遠くに運ぶことができるから

だんだん盛り土をする必要がなくなってきました。

干拓したところまで水路で土を運んで

そこを埋めていくことができるようになり 余る土がなくなって、

古墳時代がそこで終わったとも言えるのです。

このように、古墳時代は

学校の教科書で習った印象とは大きく違うのです。

教科書でいう古墳時代と言うと、

「ひたすら古墳と埴輪を作って、古墳を増やしていきました。」

といったイメージを持ちがちですが、

実際には大治水工事が行われていたということです。

そもそもその古墳は

何のために作ってたのかっていうところまで考えると、

民や奴隷に無理に土を運ばせてお墓を作らせたのではなく、

灌漑工事で余った土を盛り土にして作ったものが古墳だった

ということなのです。

基本的に古墳っていうのは平野部にしかありません。

山の上にある古墳ってあまり聞かないですよね。

だから古墳っていうのは

基本的に切り拓いて作った平野部にしか残ってないということです。

もしかしたら古墳の多い土地の平野部は昔の人が干拓したり、

もともと海だったところを埋め立てて後から平野を作った場所かもしれません。

そういうことを学ぶと、

学校で習った古墳時代のイメージよりも かなり技術は進んでいるし、

古墳自体というのはすごい発展を遂げた時代だったということなのです。

5.古墳時代の文明(文化)が生まれた背景

ここまでで、なぜそもそも古墳は作られたのか?

それは、大規模な治水工事を行い、土が余ったから。

ということを解説してきました。

でもさらにここで一緒に考えたいのが

「なぜ水路を作ったのか?」ということなのです。

その理由が「金」です。

これは世界で興った文明の地図です。

文明が繁栄するのには、川がすごく重要です。

bummei

そしてもうひとつ、

文明の発展した地域に共通することがあります。

それが「黄金」です。

これらの地域は全て黄金がとれる場所でもあります。

川を作る理由は、金を採取するためなのです。

川の下流に仕掛けをすると、

流れてきた金がそこに貯まっていくので

それを採取します。

そのために川をたくさん作って、

金をあらかた採取して全て取り切ったら、

その地域は農地開発。

そして、金を取りに行く人たちは

次の場所に移動して、(この場合は東へ渡って、)

次の地域でまた金を取りに行くのです。

だから、治水=金が手に入る ということなのです。

黄金

治水をできる人、

つまり水の流れを抑えた人が皇帝になると言われているのです。

日本で言えば、

なぜ上杉謙信があんなに狭い越後で領土を広げなくても暮らしていけたかというと、

地域の水の流れを抑えて、そこで金が取れたからなのです。

このように、歴史を動かす背景には必ず 「金の存在」があります。

6.日本人の起源をたどる3つの民族

日本人の源流は3つあると言われています。

それが、縄文人、弥生人、古墳人の3つです。

  • 縄文人:一番古くから日本に住み着いていた人
  • 弥生人:縄文時代以降に、ユーラシア大陸で戦争があって日本へと逃げて来た渡来人
  • 古墳人:古墳時代にやって来た渡来人

このように、日本にやって来た渡来人は

日本から見た西の文明(エジプト、メソポタミア、インダス、黄河)の

全てから来た可能性があります。

つまり、古墳時代に日本にやって来た渡来人は

エジプト文明やメソポタミア文明のあたりから流れて来た人で、

ピラミッドを作る技術を持っていて、

それを日本に持ち込んで古墳が作られたかもしれない、ということです。

 

ちなみに4文明には全てピラミッドがあります。

中国にもメソポタミアにもピラミッドはあると言われています。

他にも、エジプト文明の人が渡ってきたことを

示唆するような背景があります。

エジプトでは人間の死後、

「シンボルの肉体さえ残しておけば復活できる」

という思想があります。

そのためにミイラを作っているのです。

エジプトでは肉体が死んだとしても、

魂はあの世でも生き続けると考えられています。

魂は霊界にいって、

最後の審判を受けるための旅に出て、

敵が現れたりいろいろな試練がある、と考えられており、

そこで死者の書を持って死んだ人は、

それがあの世の旅の攻略本になっているから

最後まで攻略できる と考えられています。

最後の審判では、

日本でいう閻魔様みたいな神様がいてそこで裁判されて、

許可が下りたら永遠の国にいって

魂が神様のお膝元にいけるけど、NGならワニに心臓を食べられてしまう。

そして、魂があの世で生き続けるためには、

人間は肉体、魂、影でできているから

魂だけ残っても肉体がなくなったらNG、という思想なのです。

だからこの世で肉体を

ちゃんとした状態で保存し続けないといけない。

そのためには、内臓が肉体に残っていると腐ってしまうから

ミイラ職人がそういった内臓や脳みそを取り除いて、

肉体が腐らないようにちゃんと保管しますよってことで

続けられていったのがミイラという文化なのです。

だからエジプトでは

偉い人だけがミイラになっているわけではなく、

一般庶民でも実はミイラになっているんです。

それくらいエジプトは

終末に復活できるっていう思想があったんですね。

そういう思想や技術を持った人たちが

日本に渡って来たんですよね。

古墳ってすごくひんやりして保存状態もいい場所です。

日本の古墳ではミイラにはしていないですけど、

亡くなった方たちの肉体を火葬せずに残しておきましょう

ということで作られたのが、古墳なので、

実際は古墳文明はこのエジプト的な思想が渡って来て、

その思想がブームになった時期とも言えるのです。

7.諡号「徳」と空白の百年

そこで一つ気になるのが、

日本では諡号(しごう)という

死後に贈られる贈り名があります。

例えば仁徳天皇とか応神天皇とかは

死んだ後につけられた送り名であって、

生きている時に仁徳天皇とは呼ばれていた訳ではないのです。

そして基本的に日本で、

「徳」という漢字がつけられた人は、

だいたい、悲惨な死に方をしてる人なんです。

あまりにも悲惨で、かわいそうな死に方をしてるから、

せめて送り名に、徳高き人だったよという意味で「徳」という字をつけて、

その人の怒りをおさめましょうということからつけられているんです。

仁徳天皇も「徳」という漢字がつけられていますが、

先ほど紹介した「民の竈(たみのかまど)」なんかもすごい美談なんですよね。

でも実はそうではないんじゃなかな、

という憶測が立ちます。

その天皇が悪い人ではなかったかもしれないですけど、

もしかしたら必要以上に美談が盛られている可能性があるのです。

「徳」という名前がつけれらてる時点で、

何か特別なことがあったんじゃないか、ということは十分考えれます。

 

他にも「徳」と名前がつけられた人では崇徳天皇がいます。

日本三大怨霊の一人、とも言われています。

この方も死後に徳という名前をつけられてる。

 

もう一人いうなら、実は聖徳太子もそうなんです。

聖徳太子も生きてる時の名前ではなく、

死んだあとにつけられた名前です。

聖徳太子については、

飛鳥時代の記事でも詳しくお話ししますが、

17条の憲法だったり、10人の声を同時に聞き分けられたとか

聖者だったとか あれも恐らくかなり話が盛られているんですね。

 

そして「徳」という名前がつけられてる。

やっぱり、そういう名前の人たちの時代は

何かしらのものを抱えていると思うんです。

今回の古墳文明、

空白の100年間で何が起きたかということは憶測でしかないですし、

書物がないのでこういう世界の流れを見て、

そういうことがあったんじゃないかなぁってことを想像することしかできないんですけど、

十分に考えられることなんです。

 

こういった話をすると嫌がる人も多いのはわかっているのですが、

応神天皇は朝鮮半島に攻めていって帰ってきた時に生まれている子供ということは、

もしかしたら日本の皇室に朝鮮からの血が入っているという可能性も実は結構あるのです。

この話題は本当に嫌がる人はたくさんいるんですけど、

そもそも論として日本人って全部混血です。

昔から、異界のものを混ぜて強くするという考え方はあったのです。

今でも、ハーフの方が

純潔よりも強かったりするというのはありますよね。

そうやってちょっとずつ別の血を入れていって、

民族として強くするっていう思想は昔からあるんですよね。

8.古墳時代のまとめ

結局、歴史が何で動いているのかを知る時に

細かい情報をどこまで知っているかというのはもちろんあるんですけど、

大きな意味でいうとこういう大きな流れに連動しているということが見えてきます。

ちょうど古墳時代っていうのは弥生時代と同じで、

渡来系の渡ってくる人の種類が変わったんじゃないかな、

と予想できます。

弥生時代の渡来人は中国で戦争が始まって、

戦争難民として流れてきてる人が主だったけど、

古墳時代になると、ユーラシア大陸のもっと西の方から来てる人たちがやってきて、

その思想とともに、黄金を取るために東の国にやってきたという流れです。

だから歴史の後ろには常に金の存在とそれを取る人がいるんです。

その人たちが、東に渡って日本でも黄金採取を始めた、

それが古墳時代なんじゃないか、ということです。

仁徳天皇が、なぜそんな大灌漑工事ができたのかっていうと、

これらの人たちから技術を教わったからじゃないのか、ということなんです。

歴史は常に「金」によって動かされて来たんですよね。

「金」を取るために文明を起こして、

「金」を取るために河川工事をして

金が取れなくなった後の土地は農地として民に使わせる、

という流れです。

このように、日本の古墳時代といっても、

単に古墳が作られていた、という表面的なことを見るだけではなく、

  • そもそもなぜ古墳は作られたのか
  • 背景には何があったのか
  • その時代、世界の他の地域では何が起こっていたのか

といった、世界全体での大きな流れと照らし合わせながら歴史を見ていくと

教科書には書かれていない歴史の裏側や、本質的なことが見えて来るようになりますね。

今回は以上です。最後までお読み頂きありがとうございました。

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こがみのり

幼いころから人生に疑問を持ち、「空」とは何か?「無明」とはなにか?といった幾多の疑問を僧侶にぶつけるも、明快な答えを得られず。18の春に比叡山に出家を志願するも、叶わず。疑問を抱えつつ、大学在学中にパワーストーンの道に希望を託す。以来、猛勉強を重ね、パワーストーンについての該博な知識を手に入れる。大学卒業後、某パワーストーン店に就職。5年後、店長を任される。羽賀ヒカルを通じ、北極老人と出会う。以来、北極老人に師事し、精神世界の修養を重ね、パワーストーンの神髄を得る。現在は、北極老人の元でパワーストーン、人生における神髄を深めつつ、世界でただ一つ「目覚めた石」を扱う。現在、「茶肆ゆにわ」店長。

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